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「今日はラーメンを食べにきたのではないんです」ぼくは言った。「実は明日、熱海を離れることになったので、お別れを言いにきたんです」
「そうかそうか。それは寂しくなるなあ」老人はテーブルの前の椅子を引いた。「なんにせよ、食べていきなさいな。これが最後だと言うならなおさら」
ぼくは首を振った。「軽い散歩のつもりだったので、財布を寮の部屋に置いてきたんですよ」
「そんなのは構いやしねえよ。最後なんだ。わしがおごるよ」そう言って老人はにやりと笑った。
ラーメンはいつもどおり、少し伸びていて味が薄かった。主人がぼくの前に丼を運んでくると、ここ数日はまったく感じなかった空腹感が胃のなかで暴れだした。麺もチャーシューも、いつもより大盛りにしてくれた。晩ご飯を食べていないことを、このときまで忘れていた。ぼくは行き倒れた人間みたいに麺をすすりつづけた。
この日はほかに客がいなかった。「今日はもう客はこねえだろうな」と店主は言って、ぼくが食べ終わらないうちに暖簾をしまい、空のテーブルや椅子を片づけはじめた。やがて作業を終えるとぼくの向かいに腰を下ろし、熱海を離れたあとはどうするのかとぼくに尋ねた。
「北へ行こうと思ってます。それ以外のことはなにも決まっていません」そうぼくはこたえた。
「そもそもこのあたりのどこへ勤めていたのかな?」
ぼくはホテルの名前を教えた。
「それなら船橋っちゅうやつがいるだろう?」
「ええ、ぼくの上司だったひとです」ぼくは驚いた。「知っているんですか?」
「この街でわしの知らねえことなんてねえよ。船橋だって、あいつがガキのころから知っている」
「ずっとこの街に住んでいるんでしたね?」
「おうよ。前にも話したことがあるが、わしは生まれも育ちもこの街だ。仕事場も熱海だし、結婚して子供を産んだのも熱海だ」
それから店主は彼の職業について語りだした。どうやらぼくのホテルの大浴場を設置したのは彼らしい。
「驚きました」ぼくは言った。「あの温泉には毎日浸かっています。こんな繋がりがあるなんて」
「それだけじゃないぞ」と店主は言った。そしてぼくでさえ知っている熱海のホテルや旅館の名を並べ立てた。「あそこも、あそこも、あそこも、風呂場は全部わしらの会社がつくったんだ。熱海の街はわしらがつくったと言っても過言じゃねえよ」