●103
次の日の朝。ぼくは習慣であったランニングをしなかった。この街にきてからは土砂降りの日も、木枯らしが吹き荒れる日もつづけていた習慣で、やらなかったのは数年ぶり、熱海では初めてのことだった。いつもより朝寝坊をし、着替えを巾着袋に詰めて大浴場に向かった。
シャワーで体を洗い、髭を剃ってから露天風呂へ出た。もう裸でもそこまでの寒さは感じない。手すりから身を乗り出し、街を見下ろした。この習慣はまだ消滅していなかった。露天風呂にはすでにひとがいた。なぜすぐに気がつかなかったかわからないけれど、金井さんが湯に浸かりながら、いつもとは違うリラックスした表情を浮かべて、ぼくに手を振っていた。お互いに朝の挨拶を交わし、ぼくは湯に浸かった。
「おらは毎日この時間にここへくるんだ。高ければ高いほど、見える景色もいいものだよね。相沢くんは朝に入浴するのは時々かな?」
「いえ、ぼくも毎日この時間に入りますよ」
「そうなの? 不思議だな。いままで一度も顔をあわせたことがないなんて」彼は首を傾げた。
穏やかな時間が流れた。金井さんは普段、職場ではほとんど口を開かなかったけど、このときはよくしゃべった。彼は自分が幼少期を過ごした東北の片田舎の話をした。
「むかしは釣りをするのに許可をとったり、お金を払う必要なんてなかった。学校からの帰りとか、好きなときに釣り糸を垂らしたよ。おらの住んでいた集落は山奥にあった。冬は積雪で車が通れなくなるし、街からも遠すぎるからとにかく不便でね。ひとの流出が止まらなくて、とうとう集落自体がなくなってしまった。我が家の庭で育てたミミズで、よく友達と渓流釣りをしたもんさ。もちろん、おらは海釣りだってやれる。相沢くんは釣りはするのかい?」
「いえ。ぼくはただ、釣りをしているひとを横で見ているだけです」
「そういえば相沢くんは、海でお昼休みを過ごすんだったね。おらも時々、ひとりになりたくなるよ。従業員食堂で食べてたって、楽しくなんかないものな」彼はため息をついた。「おらとまともに言葉を交わしてくれるひとなんて、食堂のおばちゃんくらいさ。まあ、それもおら自身のせいだから仕方ないんだけどね」
「そんなことありませんよ。金井さんはだれよりもよく働いてます」