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「そうでしたか。どうりで慣れているというか、そんな雰囲気がしましたわ。娘もいまごろのんびりしているだろうて」
長くお湯に浸かっていたせいで頭がぼーっとしてきた。男は両手でお湯を掬い、何度か顔をすすいだ。
「三十年も会社に勤めたんです。もう充分義理は果たしましたよ。わしはこれでも機転の利くほうでしてな。会社のピンチを救ったことも何度かあるんです。これで、定年を迎える前に退職するなんて、ってな文句を言われたら、わしは真っ向から戦いますよ。そいつは筋が通らねえ」
ぼくは頷いた。両腕をお湯から出し、雨にあたるよう浴槽の縁にのせた。
「とにかく金はあるんです。他人に迷惑をかけなくても生きていけるだけの金はね。すでに現地の日本人に話を通して、ベトナムに移住する算段はついとるんですわ。ダナンという街なんですがね。ちょっと前からリゾート開発に力を入れている街でして。住むのは郊外ですが、生活には困りません。大きい街なんですよ。海岸沿いに砂浜がずらーっとつづいておりましてな。熱海のビーチなんて目じゃありません。世界一、海が綺麗なとこですわ。加えて飯がうまいんだ。ベトナム料理は日本人の口とあうなんて言われてますがね、まったくそのとおりで。料理もうまければ、マンゴーやドリアンのようなフルーツもうまい。初めて家族で旅行に行ったときから虜になっちまいました。いつか絶対ここへ住むんだと、自分に言い聞かせましたね。お宅はベトナムには行ったことがあるんですかい?」
「ぼくは海外に行ったことがないんです」
「そうですかい、そいつはもったいねえ。ベトナムはいいですよ。なにしろ人柄がこの国とは違います。根が優しいんです。挨拶したら無視されるなんてことはないし、近所付きあいがしっかりしています。他人の領域には踏みこまないなんていう冷たい考えかたはしません。みんな手をとりあって生きとるんです」
「日本とはそんなに違いますか」
「違いますね。機会があればベトナムのひとが描いた絵を見てください。人々がお互いに手助けしあって仕事をしている。輪になって遊んでいる。そんな絵ばかりですから。孤独という構図はあの国のひとたちにはなかなかないんです。そこが日本人とは違います。この国の人間は謙虚がすぎるんですわ。それでもって、プライドが高すぎる。何百年も前からそうなんです」
視界が霞んできた。自分がのぼせたのがわかった。話の途中でぼくは体を起こし、浴槽の縁をまたいで、近くにあったベンチの上に仰向けに寝転んだ。全身が雨に濡れたけど寒くはなかった。体がマグマのように熱かった。目線にタオルを被せ、雨があたらないようにした。そうやって火照った体を冷ました。