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「そうですか、それは申し訳ねえ」と男は頭を下げた。「もしお坊さんなら、話を聞いてくれるかもと思っちまったんです。私生活でいろいろとありまして・・・」
「そうなんですか?」
「ええ。実は三十年連れ添った家内と別れて、新たな生活をはじめることになったんです」男はまるで台本を読んでいるみたいな話しかたをした。「別れると言っても、不仲とか揉め事が理由なんかじゃなくって、二人でじっくり話しあって出した結論なんです。円満な離婚なんですわ」
「ふむ」
「子供たちもみんなひとり立ちして、子育ての義務からも解放されました。もうそれぞれが好きな人生を歩んでいいんじゃねえかって、そういう話になったんです。最近そういった夫婦が増えてるでしょう? わし個人の意見を言えば、それはいいことですよ。やらなきゃならないことをやったあとなら、ひとは好きに生きるべきです。でなきゃ救いってもんがありませんわ」
「なるほど」
「家内にもどこか思うところがあったみたいで、ごく平穏に話は進みました。むかしっからわしらはそうなんです。喧嘩だって一度もしたことはない。似た者同士なんですな、きっと。お互いの考えてることが、それを口に出す前にぱっとわかっちまうんです。別れ話を持ち出したのはわしなんですが、家内はそれを予期していたみたいでした。わしがどんな話をはじめるかわかってたんですな。わしが定年を迎える前に退職をして夢を叶えたいんだと言うと、家内はただ頷いて、あんたの好きにしたらいいさ、と言ってくれたんです。前々から思ってはいましたが、わしには過ぎた家内ですわ」
「素敵な奥さんですね」
「ええ、ほんとうに。もしかしたら子供たちは反対するかもと思っていましたが、あの子たちもわしの話に真剣に耳を傾けてくれて、最後には納得してくれました。元より、彼らは彼らで、しっかり自分の脚で立っとるんです。親にも自分の人生を好きに生きる権利があると、背中を叩いてくれました。あの子らの稼ぎなんかあと数年もすれば、わしが一番もらっていた頃よりも上まわっちまいそうな勢いで。もちろん、それは喜ばしいことですがね」
「素敵なお子さんたちだ」
「とはいえ、家族に迷惑をかけるつもりなんてさらさらないんだ。貯えはしっかりありますし、家内は家内でちゃんと仕事を持っとります。家は話しあった末、売らないと決めました。あそこには家内が住みつづける。子供たちの帰る場所も必要だし、わしにだって翼を休める場所はほしい。ええ、別れてからも彼らとは会うつもりですよ。むかしっからいっしょに旅行へ出かけたり、家でゲームをして遊んだりして、家族仲のいいのが自慢なんです。今日だって娘に温泉へ行こうと誘われて、新幹線に飛び乗ってここまできたんですわ。お宅はどちらからこられたんで?」
「ぼくはここで働いてるんです」