●82
「きみに触れることはできないんだろうか」ぼくは尋ねた。
「それは夢のなかでの話?」
ぼくは頷いた。
「それはできないの」彼女は言った。「わたしはそういう存在じゃないから」
ぼくはもう一度頷いた。温もりを感じたのでそちらを見ると、小夜が両手で傘を持つぼくの手を包み、体をこちらに寄せてきていた。彼女の頭がぼくの肩のあたりに触れた。ぼくの頭上にも透明なビニールの覆いができ、体を冷やしていた雨粒を断った。でも雨の勢いは増しつづけた。もういまでは雨は弾丸のように降りそそぎ、池には数えきれない波紋が花開いた。横殴りの風が周囲で踊りまわっていた。舞い上がった飛沫がぼくらの服を濡らした。
「もう部屋に戻ろう。風邪をひいちゃうよ」
彼女は首を振った。この騒音のなかで、どうして彼女の言葉が聞きとれたのかわからない。「まだここにいたい。もういやなのよ、見てるだけなのは」
どうすることもできず、ぼくはその場に留まった。彼女に触れてしまわないよう、左手はポケットに突っこんでいた。パン屑の入っていた包みはもうとっくに空だった。鯉たちは岩場の陰や水底に姿を消していた。見渡す限りにぼくら以外の人影はなかった。頭上を見上げると、透明なビニールを通して、黒い雨雲が見えた。今度の雨はしばらくやみそうになかった。