●76
ぼくは彼女のほうを振り向いた。二人の距離は、お互いが手を伸ばしても届かないくらい開いていた。その横顔はなにかを思いつめてるように見えた。「夢って、眠るときに見る、あの夢?」
「そう」彼女は頷いた。「眠っている間に見た夢を、目が覚めてからもおぼえていられることってある?」
「うーん、どうだろう」ぼくは考えた。「何度も何度も見たことのある夢とか、とても強く印象に残った夢はいまでも思い出せるよ。でも普通は朝起きてからしばらくすると忘れているかな」
「たとえばどんな夢が記憶に残っているの?」
「高いところから落ちる夢とか、水のなかにいるみたいに動きが緩慢になってしまう夢。それから線路の上に縄で縛りつけられて、そのまま列車に轢かれてしまう夢とか」
「もぐりの心理学者が聞いたら、歓喜して解説してくれそうな内容ね」
小夜は千切ったパン屑をひと際遠くに投げた。それは放物線を描いて池の奥に着水した。群れの一群がぼくらの元から離れ、尾びれで水面を叩きながらそちらに吸い寄せられていった。
「最近になってからね、いままでとはなんだか違うのよ」と彼女は言った。「夢をおぼえていられるようになったの。目が覚めてからも忘れていないのよ」
「へえ」ぼくは彼女の横顔をちらっと見やった。「目が覚めたばかりのときに、夢の残り滓みたいなものが脳裏にへばりついていることはあるよ。きっとメモでも残せば思い出せるんだろうけど、頭がはっきりしはじめると、もう思い出せないんだ」
小夜は激しく首を振ってぼくの言葉を否定した。「そうじゃないの。そんなおぼろげなものじゃなくって、それは記憶なの。夢と現の境があいまいになるというわけじゃないんだけど、日中の記憶と同じようにはっきりと、鮮明に思い出せるのよ」
風が吹いていた。どこか遠くの雲間で雷鳴が轟いた。ぼくは穏やかに言葉を紡いだ。「そういう人間がいるっていう話は聞いたことがあるよ、そんなに珍しい話じゃない。なかには自分の意志で夢を自在に操れる人間もいる。彼らは夢のなかで行ったことのない土地へ旅行をしたり、好きなものを好きなだけ食べたりできるらしいんだ。なぜだかあまり羨ましいこととは思えないけどね」