●74
病室の窓際に立ち、不安定な暗い空を眺めていた。この時期の天気は気まぐれが過ぎる。寮を出るときは涼しげな曇り空だったのに、病院に着く頃には雨がアスファルトを激しく殴打するほど降っていた。ずぶ濡れの上着とリュックはハンガーで干してある。下着やシャツはまだ濡れたままで、動くたびに体にぴたっと張りついた。だが特にこの天気を疎ましいと思う気持ちはない。雨粒が宙を舞う光景は見飽きることがない。何時間でも見ていられそうだ。
小夜はまたいつもの小説を読んでいた。先の展開も言葉もあらかじめわかっているのに、どうして繰りかえし何度も読めるのか不思議だった。ページは親指のあたる部分が手汗で変色していた。小夜のにおいがこびりついていた。ささやかながら、なぜだかその本に憐れみをおぼえた。
立ったまま、彼女の後頭部を見つめた。ページを手繰る細い手はしなやかに伸び、規則正しく動く。ライトブルーのパーカーを着て、背中にフードが垂れ下がっている。艶のある黒髪がひと房、こめかみを伝い、口元まで垂れ下がっている。物語が彼女の好みの場面に差しかかると、唇は時々ぶつぶつとひとり言を紡ぎ、ぎゅっと引き結ばれる。いついつまでも記憶に留めようとするかのように。
ぼくは時々こういうことをする。黙したまま、姿勢を変えずにただ見つめつづける。彼女が顔を上げ、ぼくの視線に気づいたのならぼくの負け。そのときぼくは視線を逸らしてはならないし、素直に負けを認めなくちゃならない。ぼくがこれまで積み重ねてきた時間を彼女に差し出す。そういう決まり。でもいまのところ、ぼくが負けたことは一度もない。何分も、何十分もつづけたことだってある。どうやら彼女の領域は、ぼくのように矮小な存在には侵せないらしい。