●72
言葉を尽くして、律子さんの不安を和らげた。ぼくは大丈夫。まだ一文なしじゃないし、いざとなったら手を差し伸べてくれる友人もいる。ギャンブルも深酒もしない。悪い人間に騙されるほど人間好きでもない。自分の選択をほかのものに任せたりなんてしていない。ここ数年の記憶はおそらく正常。少なからず小夜のことを想っている。ぼくはしっかりここに立っている。ここがどこだかは知らないけれど。
スーパーの駐車場まで彼女を送った。広いスペースに彼女の車しか停められていなかった。別れ際まで彼女は疑念の表情を浮かべていた。熱海の街は気に入ったかい? とぼくが尋ねると、今度はもっとゆっくりしたい、と返事が返ってきた。彼女はためらいながらも車に乗りこんだ。窓を開けてこちらにひらひらと手を振り、ウィンカーを出して通りへと合流するのを見送ってから、ぼくはその場をあとにした。
閉店間際のスーパーで安売りしていた総菜を買った。寮へ戻り、着替えを準備してから温泉に向かった。眼鏡をかけたやせ細った男と、子供連れの禿げあがったお年寄りが湯船に浸かっていた。あたたかいお湯のシャワーを浴びると、足の裏の皮が剥けた部分に痛みが走った。ぼくは丁寧に体を洗って汗を流し、頭にタオルをのせ、痛みは無視して肩まで湯船に浸かった。疲れが芯から溶け出てゆく。思わず呻き声を漏らすと、少し離れたところにいた子供にじっと見つめられた。ぼくがもう一度静かに呻き声を漏らすと、今度は笑いをこらえる素振りを見せた。もう一度だけそっと呻き声を漏らすと、お年寄りの体の陰に隠れ、乳歯の欠けた歯を見せてくすくすと笑った。
軽くシャワーを浴び、タオルで体を拭いてから脱衣所に上がった。冷水器のスイッチを踏んで冷たい水を貪るように飲み、鏡に映る細長い裸の全身を眺めながら、備えつけの綿棒で耳掃除をした。清潔な部屋着を身に着け、汚れた服をビニールの袋に詰めてホテルを出た。
自分の部屋へ戻り、スーパーで買ったきんぴらごぼうとマカロニサラダをカーペットの上に広げ、胡坐をかいて箸でつまんで食べた。味はおいしかったけど少し古かった。飲みものはペットボトルに入った麦茶だった。冷蔵庫がなかったから気分が悪くなるくらいぬるかった。体が熱かったので扇風機の電源を入れた。食事を終え、空の容器と割り箸をごみ袋に突っこみ、瘦せ細った蛍光灯の下、一時間ほど図書館から借りていた本を読み耽った。途中から内容がさっぱりわからなくなったので、ぼくはその本をしおりも挟まず、部屋の隅に投げ捨てられた鞄のそばに置いた。時刻は二十四時だった。布団を広げ、歯を磨き、トイレに行って用を足し、部屋の電気を消して床に入った。眠りはすぐに訪れ、なにに邪魔をされることもなく、朝まで眠った。