☀️10
それからわたしはおとなしくベッドに腰かけ、律子さんに渡された体温計を腋に挟んだ。「空気が澱んでいるわ。しばらく換気していないでしょう」律子さんは窓辺に近づいて、引き戸を力いっぱいに開いた。初夏の黄昏時の青くさく、湿った空気が部屋のなかを一気に駆け抜けていった。それが律子さんの美しい髪を荒々しく、同時に繊細に揺らしていく。彼女の纏うタンポポの綿毛のような厭世観は、いつもわたしの奥深くを巧みにくすぐる。このひとと話すときだけは、自分がとんでもない馬鹿になった気がしない。
「やっぱり、こっちの病棟のほうがわたしは好き」律子さんは窓枠に頬杖をつき、外の景色を眺めながら言った。「あっちの病棟からはお城が見えないの。建物自体が陰になっていてね。この時間は空を覆うほどの鴉の群れと、帰宅途中の車の行列が見れるだけ。気が滅入っちゃうでしょ? それなのに一日あたりの入院費はこっちよりも高いのよ。部屋の設備がちょっといいっていう理由だけでね」
「看護師のひとたちも、お仕事に好き嫌いがあったりするの?」とわたしは尋ねた。
「当たり前でしょう。わたしたちだって人間なんだから、好き嫌いくらいあるわ。みんないい大人だから、だれも口にはださないけどね」律子さんはこっちを振り向いて、少し声をひそめた。「わたしはお年寄りのひとが苦手なの。部屋のなかにいる間、ずっとじろじろ見られてるような気がして」
わたしは当時よくやっていたように、足を交互に上下させ、またスリッパの模様を眺めはじめた。たしかなにかの花柄だったように記憶しているけれど、いまとなってはよくおぼえていない。
「それじゃあ、あたしはみんなから嫌われているね」わたしは履いているスリッパで床をぱたぱた叩いた。「わがまま放題、騒ぎ放題。だれだって、あたしの世話なんかしたくない」
「それがわかってるなら、どうしておとなしくしていられないの?」
「別にみんなから好かれたいわけじゃないの」わたしは本心からそう言った。「嫌われたいわけでもないけどね。単にどうしようもないだけなの。だって、ただでさえ退屈な入院生活なんだよ。移動といえば部屋と中庭の往復だけ。狭い空間のなかでしか呼吸することが許されないの。そして毎日同じものを視界にいれ、毎日似たようなものを食べて、あとはお風呂入ってわけのわからない体操をして寝る。そのうえでくだらない天気の話をされたり、学校の同級生の近況を聞かされたら参っちゃうよ。あたしはあたしのことで精いっぱいなんだもの。だれにも、できるだけ迷惑をかけないで済むようにするので精いっぱいなんだよ」一気にまくしたてたあと、わたしはため息をついた。「きっと退屈って、どうにかすればひとを殺せるんだ」