●62
扉をノックすると、なかからゆるり落ち着いた返事が返ってきた。部屋に入ると、ソファに座っていた小夜と正面から目があった。カーテンは閉め切られていて、まだ沈むまで間がある陽の光が隙間から漏れていた。欠伸の出そうな暖気が、窓が開け放しであることを示していた。彼女は直前まで、なにかをしていたというわけでもなさそうだった。何時間もそうしていたという雰囲気で、ただそこに固定されていた。ぼくらはしばらく無言で見つめあった。
口を開いたのは彼女のほうだった。「そんなところに突っ立ってないで、座りなさいよ」そう言ってベッドの横の机を指し示した。ぼくは頼りない足を引きずって彼女の前を通り、机の前の細長くて脆そうな椅子に腰かけた。
「冷蔵庫にパイナップルがあるの。食べる?」
ぼくは重力に打ち負かされたかのように頷いた。「お昼ご飯を食べてないんだ。お腹がぺこぺこだよ」
小夜は冷蔵庫から、すでにカットされていたパイナップルののった皿を取り出し、覆いを外して机の上に置いた。ぼくは彼女から差し出されたフォークを受けとってパイナップルに突き刺し、口に運んだ。
「いったいここに着くまでどれぐらいかかったの?」小夜はソファに座り直し、膝に頬杖をついてぼくに尋ねた。
「熱海を出たのがちょうど正午くらいだったよ」
「ずいぶんかかったわね。近いようで、遠いんだ」
「これでもほとんど休憩なしで歩いたんだけどね」パイナップルの沁みるような果汁が、ぼくの泡立つ血液を冷ましてくれた。
「律子さんにはもう会った?」
「下で顔をあわせたよ」ぼくは先ほどの場面を思い浮かべた。「そういえば、今日はなにも小言を言われなかったな」
「きっと事前に連絡をいれたのがよかったのよ。心の準備ができてれば、目くじらを立てたりはしないんじゃない?」
そうだったのか。ぼくは納得した。
その後もだらだらとしゃべりつづけ、気づくと時刻は十九時になろうとしていた。ぼくは食べ終えた食器を洗おうとしたけれど、小夜は「わたしが洗うからそのままにしていきなさい」と言った。外はもう暗かった。ぼくは立ち上がり、小夜に手を振って暇を告げた。
病室を出て、静かに扉を閉めた。廊下にはひと気がなく、物音ひとつしなかった。照明が鏡面のように滑らかな床に反射していた。下を見ると、ぼくの立ち姿が床に映っていた。一歩ずつ、小夜との距離が開いていくのを背中に感じながら、階下に向かった。
ロビーでは律子さんが待っていた。仕事着ではなく私服を着て、肩から鞄を下げていた。女性の衣服についてはよくわからないけれど、肌に張りついたベージュのズボンや白い薄手のカーディガンは彼女によく似あっていた。ぼくは彼女に近寄った。
「帰りはどうするつもり?」彼女は尋ねた。「疲れているんでしょう?」
ぼくは首に巻いていたタオルを彼女に返した。「きたときと同じだよ。バスや電車は苦手なんだ」
「いまからじゃどんなに急いでも、あっちに着くのは真夜中になるわよ。明日も仕事なのよね?」
「休みながら行けばなんとかなるさ」
「それじゃ体がもたないわよ」彼女はポケットから車のキーを取り出し、人差し指にぶら下げてみせた。でもそれ以上はなにも言わなかった。
ぼくはここまでの道のりを思いかえし、やれやれと諦めて首を振った。「送っていってくれたら助かるよ」ほかにどうしようもなく、ぼくはそう言わされた。律子さんは微笑んだ。