あの家族……
この町で暮らし始めて2週間……。思い切って退職を決めてから引っ越しをして、各種手続きをすませて……。バタバタとしていたけれど、気が付いてみれば早いものだ。
私の名前は尾川奈緒。この町に引っ越してきて、パソコンのなんでも屋に勤めて2週間が経つ。この町は、私が暮らしていた都会よりもずっと静かな片田舎だ。夜でさえも眠らない病的な大都会に嫌気が差していた。元々、私は静かな場所で暮らしたいと思っていたのだった。
転職を決めたのは、生き方を変えて、全てから逃げるためだった。
日本という国は、弱者に厳しい。困っている人に無関心だ。普段、優しい言葉をかけてくれる人も、いざ助けを求めると冷たい態度になる。
私も、誰からも助けてもらえなかった。
無理な残業に上司からの圧力が続き、精神も肉体も、緊張しっぱなしだった。会社を辞めてしまいたいのにそれもできない。無限に続くような、細々としたストレスの積み重ね。私は、その全てに疲れてしまったのだ。だから休養して、何もしない時間が欲しかった。今の会社に通い続けることへの隷属から、自分の生き方を取り戻したかったのだ。
面接のたびに「この3カ月間なにをしていたの」と聞かれる。空白の時間は怠けているかのように思われるのだ。この国は、他人の落ち度を探してそこを否定しようとする。
病んでいる者は、そのまま死んでいけとでもいうかのように、この国は人を突き放す……。
真面目に働くことが美徳とされる社会。良くも悪くも真面目な社会。精神を病んだ人は次第に排除されていき、我慢できる者だけが残る。
もともと、悩みを相談する相手がいなかったのも、心の闇を深くした原因だった。一人でいると、世界はどんどん閉じていく。暗い世界から引き上げてくれる、温かい家族が欲しいと思った。家庭というものを知らない私は、家族という言葉にずっと憧れていたのだった。
「おかえり」を言ってくれる人がいて、「おはよう」と言ってくれる人がいる。誰かと同じ家で生きるという安心感を、孤児の私は知らない……。
さて、パソコンのなんでも屋というのは、パソコンに関する相談ごとを出張して解決する業務のことだ。社員10人ほどの小さな会社で、新入社員である私は、まず簡単な基本設定や、メール設定などをすることから任された。だいたいは四十代より上の世代からの依頼が多い。パソコンを買ったはいいものの、使い方が分からない。でも、教えてくれる人も身近にいない。そんな人たちが私たちのお客様なのだった。
ウィルスに感染したパソコンの問題解決などは、もっと経験のある人が担当する。私は、まだ任せてもらえない。
この会社に決めた理由は、面接のときに「ああ、大手企業に勤めてたんだ。大変だったろうね。あそこは色々と悪い噂があるみたいだね。サービス残業とかパワハラとかさ。ここは大丈夫だよ。みんな不真面目な馬鹿ばっかりだから。まあ、軽い気持ちでいいから試しにやってみたらどう? というより、ウチを助けるつもりで、ちょっと働いてみてくれないか」
こう言われたからだった。
こぢんまりとして、前の会社ほど上等ではないけれど、自分の机がある。パソコンの前に座って、今日の依頼をチェックする。依頼自体はそんなに多くはない。
(さて……今日はどんな依頼がきてるかな)
【34歳女性 お客様の名前 須川景子】
34歳か。この世代の女性からの依頼は初めてだ。私と同い年。
この町にきたばかりで、同じ年頃の友達が欲しいと思っていた。あわよくば、友達になれないかな、とそういう思いもあった。
馬が合いそうな人なら、連絡先を交換して仲良くなろうかな。いや、今は仕事を卒なくこなすことを優先しなければ。浮ついた心では、仕事も失敗する。上司からのプレッシャーの無い職場であったとしても、最初からそんなことでは駄目だぞ、自分。と私は自分自身を叱咤した。
翌日、須川景子さんのお宅へ出張することになった。なんでも、パソコンのメール設定とパソコンでテレビを見る方法を教えてほしいとのことだった。
約束の時間は午後3時。須川さんのお宅まで社用車で向かう。田舎の風景を眺めつつ、これで本当に良かったのか、と自答する。
(高望みは元からしてない。今の仕事も、給料は少し安いけど、働きやすいからいい。続けていけそう。この町の穏やかで寂れた感じも馴染めそう……。もう一度やり直すんだ)
人の幸せの形は、人それぞれだ。結局自分がそれでいいと思えば、それでいいのだ。
そんなことを考えながら、車窓から景色を眺めた。
『家族をひとつにするお手伝い まごころファーム』
町のあちこちで見かけるこの看板、一体なんだろう。ファームというくらいだから、農場だろうか。ぶどう狩りか、いちご狩りのようなものかな。仕事に慣れて、気持ちに余裕が出てきたら、そんなところにも行ってみよう。そう思った。
依頼者の自宅に到着した。まず落ち着いて、お客様の携帯に電話をかける。到着を告げる確認の電話だ。段取りの狂いなく、須川景子さんが出た。確かに自宅に居るとのこと。
チャイムを鳴らす。玄関が開く。笑顔で出迎えてくれたのが、おそらくこの方がお客様の須川景子さんだ……。年齢よりずっと若く見える。私よりもずっと。
お宅に上がらせていただく。じろじろと眺めないように注意しつつ、家の中を伺った。綺麗に片付いている。それに、家具のセンスも良い。まるで、ドラマに出てくる家みたいだ。
分からないから全部やってほしい、という依頼だったので、パスワードのメモ書きなどを出してもらってメール設定を行った。どうやら、パソコンは苦手なようで、どれが必要なパスワードなのか分からなくなっているようだった。
幸い、メモに書き残してくれてあったパスワードは正しかったようで、仕事はすぐに終わった。
仕事を終えて、須川さんのお宅を出た。かかった時間は30分少々。
さて、会社に戻ろう。
「あら、あそこの家にどんな用?」
向こうで掃き掃除をしていたおばあさんが私に声をかけてきた。よく顔の肥えた、肉付きのいいおばあさんだ。
「いえ、パソコンのことで相談を受けまして」
「あら、そう」
そのことには興味がなさそうだった。なにか、表情に胡乱なものを感じた。
「あそこの家の人、ちょっと変だと思わなかった?」
「え?」
おばあさんは声をひそめて、
「実はあの家族、ホントの家族じゃないらしいのよ」
「ホントの家族じゃない……?」
「そうそ。なんだか気味の悪い話だけどね。他人同士がくっついて、家族のふりをしてるらしいのよ」
とおばあさんは手のひらを振りながら言った。
なにをそんな馬鹿なことを、と思ったが、私はそれきりおばあさんと別れて会社に戻ることにした。
<本当の家族じゃない? そんな馬鹿な。知らない人たちがくっついて家族のふりをする、そのメリットがどこにあるというのか?>
会社に戻ってから業務内容をまとめつつ、ふとおばあさんの話を反芻していた。
須川さんはすごくいい人たちだし、そんなのただの噂。妬む気持ちが突拍子もない噂を作り出しているにすぎないのだ。人の噂って怖い。まるで噂という生き物が、人々に嘘を耳打ちして信じさせているような気さえする。
…………。
………………。
でも、あの家族は、家族というにはあまりにも理想的だし、そういわれてみれば、白々しい感じもする。私の感じたそれは、他人同士の演技からくる違和感だったのだろうか?
ふと、あの須川家の幸福に満ちた笑みの裏側に、裏の顔を見たような感じがした。
雑用で、近くに会社が借りている倉庫に行くことになった。不要な机や、その他狭い社内を圧迫する大きな物を置きに行くだけのことだった。上司の藤島さんの運転で、私は助手席に座った。倉庫までは車で10分ほどの距離だ。
夕焼けが綺麗だと思いつつ、景色を眺めて藤島さんと他愛のない話をしていた。
『家族をひとつにするお手伝い まごころファーム』
あの看板が目に入った。
試しに、上司の藤島さんに、
「あの、まごころファームってなんですか?」
「ああ。あれねえ」
その言い方は、なにか含みがあった。
「俺もよく知らないけど、まあ、縁結びっていうか、人と人とを繋いでくれる場所とでもいうのかな。まあ、有り体に言うと、全然関係ない人たちを家族としてくっつけるようなことだろうけど。しかも、かなりの大金を積めば理想の家族を探してくれるらしいよ。そういうの、興味ある?」
「いえ…………」
関係ない人を家族としてくっつける……?
須川さんの家を訪問したときのことを思い出した。
『他人同士がくっついて、家族のふりをしてるらしいのよ』
須川さんの家の近くで会ったおばさんはそう言っていた。
……家族のふりをする。
……なんのために?
再び須川景子さんから依頼が来た。今度はウィルス対策ソフトの導入の仕方を教えてほしいということだそうだ。
須川さんの家を訪問すると、今日は景子さんしかいないようだった。
仕事は早々に片付いたので、おいとましようとすると、須川さんが、
「ちょっと、話でもしましょうよ。尾川さんと、なんだか友達になりたくなっちゃった」
と言ってくれたので、応じることにした。
最初は仕事の延長での付き合いと思っていたけれど、話をするうちに、須川さんの魅力に引き込まれたのか『この人と仲良くなりたい。この人との出会いは、絶対に人生でプラスになる』と考え始めている私がいた。
須川さんは旅行好きで、2年に一度は海外旅行をするのだという。私も、以前は海外旅行に行っていた。元気がなくなってからは旅行など、考えることもなくなってしまった。
「韓国なら手軽に行けるからさ。時差もないし、明洞なんか、面白いと思うよ」
「いいですね。私も行ってみたい」
それから須川景子さんと仲良くなって、友達として個人的に付き合いをするようになった。そして明日、須川さんの家に招待されて、夜は泊まらせてもらえることになった。
夕飯はすき焼きをご馳走になり、趣味の旅行の昔話に花が咲いた。久しぶりに長く人と話して、気分が高揚した。
結局、一番風呂にまで入れさせてもらって、神様のようなもてなしを受けてしまった。どちらかといえば、須川さん達はお客様にあたる立場なのだが、それでも、断り切れなかったので、ずいぶんと甘やかしていただいた。
そうして、二階の部屋に案内されて就寝することになった。
夜。突然、部屋のドアが開いた。
誰だろう。景子さんかな。そう思い、ドアの方を見た。暗ので、人のシルエットが見えるだけで、それが誰なのかわからない。
無遠慮に電気がつけられた。私が寝ていると知っていて、電気をつけたということだ。なにか、不吉な予感がした。
明るくなった部屋。そこに全員が揃っていた。寝ている私の前に、須川家の全員がいる。
なんの冗談か、景子さんは大ぶりな出刃包丁を手にしている。景子さんの旦那さんはノコギリ、おばあさんは金槌を持っている。
血が凍り付くような感覚が襲ってきた。
景子さんたちはベッドで横になっている私を真顔でじっと見つめ、そのまま立っている。
ただごとではないと思い、ベッドから抜け出た。そして、彼らの前に立った。
「景子さん、これは……? なんでそんなもの、持ってるの?」
景子さんはその質問に答えず、こう言った。
「あなたも噂で聞いてるはず。わたしたちの関係を」
「え?」
「あなたと近所の中田さんが話しているのを高志が見てたの。もちろん、そんな噂を流した中田さんには消えてもらったけど。そう……。私たちは本当の家族じゃない。息子の高志は幼い頃に家族を亡くし、親戚もいない。だから孤児として生きてきた。私の夫はギャンブルで破綻した。みんな、家族を失くして一人で生きてきたの。旦那とは家族として暮らしてるけど、結婚してるわけじゃないの。このおじいちゃんもおばあちゃんも、もとはなんのつながりもない他人だった……」
あのときのおばあさんは、この人たちに殺されたということか。今、自分たちが殺したと、景子さんは平然と言った。それを私に話すということは、つまり、私は……。
急に、現実感がなくなった。自分の意志とは関係なく、足が震え始めた。
逃げないと。でも、ドアに立ちふさがるように須川家の面々は立っている。ここは二階で、窓から逃げることもできない。
「お願いだから、殺さないで! 私たち、良い仲だったじゃない!」
なんとか説得をしようとした。
景子さんは頭上にかざしていた出刃包丁を下ろした。
「殺さない……」
須川家の他の面々が、驚いたように景子さんを見た。
「景子さん! 始末するの! でないと私たちの幸せが……」
おばあさんが叫んだ。景子さんはおばあさんを見てから、私に目を移した。
「あなたは良い友達。あなたにはそれをわかってもらいたかった。だから本当のことを話したの」
「景子、覚悟はできてるんじゃなかったのか」
景子さんの夫が言った。それから、景子さんと他の家族で、口論が始まった。
どうやら私を放置して揉めているようだ。景子さんは私を生かすつもりでいるが、他の家族は殺すつもりで口論になっている。
「俺たちの幸せを壊すのだけは許せない。俺はもう幸せを壊されるのが嫌なんだ。だから、いつも通り始末するんだ、景子!」
「殺すのももう、何人目なの? もう疲れるんだよ! せっかくいい友達を見つけたのに……。私は、友達も作れないわけ?」
口論が続いている。
(…………)
先ほどまでの恐怖が消えている。
自分でも驚くほど冷静な自分がいることに気が付いた。
なにか、自分の中でバチンと音がして、ブレーカーが落ちたときのように、私の中でなにかが無くなったように感じた。
…………それは理性? それとも良識………………?
喜びがこみ上げてくる。
そっか。
そっかそっか。
こんな家族の作り方もあるんだ。
こんな孤独の癒し方もあるんだ。
……うふふふふふふ。
笑い声がもれてしまった。笑ったのは、まぎれもなく、私。
私は景子さんに接近した。
「よかった。あなたに会えて本当によかった」
「え……ちょっと、どういうこと、奈緒ちゃん?」
「だって………………から」
「え?」
私はさらに歩み寄って、景子の手を掴んだ。
そして、耳打ちした。
〝かぞくのつくりかた。わたしにおしえて……〟
それから数か月後。
私にも家族ができた。
優しい旦那と子供。それから旦那の父と母。私とっては義母と義父になる。
今、すごく幸せ。
もう、誰にも幸せは崩させない。
私たちの幸せを壊そうとする奴は生かしておかない。