クロ
ガルムの攻撃からレイアを庇いクロが大怪我を負った。アーデンはアンジュに指示を出す。
「俺が食い止めるからレイアの所へ行けっ!」
「でもっ…」
「いいから行けっ!!」
アーデンは自分でも無謀なことを言っているという自覚はあった。それでもクロの怪我を心配してアンジュを行かせることに決めた。ガルムを意識を自分に縫い止めるためにアーデンは激しい攻勢に出た。
横たわるクロを前にして呆然とするレイア、その元にアンジュが駆けつける。アンジュはまずレイアの背中を強く叩いて言った。
「しっかりしてくださいレイアさん!」
「えっ…あっ…」
「まだ戦いは終わってません!レイアさんのお陰でガルムの補給源は絶ちましたが、依然ガルムは腹に多くの肉を抱えたままです!アーデンさんが今必死に食い止めています!」
「でも…クロ、クロが…」
「クロの頑張りを無駄にするつもりですかっ!?」
アンジュの必死な叫びがレイアの胸を打つ、ようやく我に返ったレイアは状況を把握し始めた。
そんなレイアを押しのけてアンジュがクロの前に座った。傷の具合は酷く、アンジュの治癒魔法では精々止血程度しか出来ないとすぐに分かった。
それでもやれることをやる。アンジュは頭を切り替えると一番出血の酷い後ろ足の治療を試みた。治癒魔法によって止血し包帯を巻く、応急処置だったが取り敢えず出血は止まった。
次に刺さった瓦礫を丁寧に取り除いた。治癒魔法で傷を塞ぎ対処する。体に負ったダメージの大きさは如何ともし難いが、外傷の治療は出来た。
これは十分な治療とは言えない、しかしアンジュに出来る精一杯のことは出来た。アンジュは慎重にクロの体を抱きかかえるとレイアに渡した。
「レイアさん、クロさんを安全な場所までお願いします。私はアーデンさんの援護に向かいます」
「…分かった。ありがとうアンジュ」
アンジュはこくりと深く頷いてからアーデンの元へ戻った。レイアはぐったりとしているクロの体を支えて広場の出入り口まで戻った。
クロの体をそっと横たえて地面に置いた。そしてレイアは優しく頭を撫でる。
「馬鹿ねクロ、終わるまで出てくるじゃないってアーデンが言ったでしょ。言われたことはちゃんと守りなさいよ」
クロはレイアの言葉に一回だけ尻尾を振って返した。
「今度こそここで大人しくしてるのよ?足は、私がまた何とかしてあげるからね。お願いよクロ、ここに居て」
レイアの目は涙に潤んでいた。震える声を必死に絞り出しクロに話しかける。クロは返事代わりにまた尻尾を振った。
「私も戦いに戻るから。あの化け物をすぐに倒してクロの足を作ってあげる、約束よ」
涙を拭いレイアは立ち上がる、そして何度かクロの方へ振り返ったが、いよいよ振り返らずに戦いの場へと戻った。
レイアを見送った後、クロは震える体を何とか立ち上がらせた。足を失ったことで何度も倒れるが、それでもまた立ち上がった。クロはこれまでのことを思い出し力を振り絞った。
ブラックウルフのクロ、元々いた群れはガルムに全滅させられた。ブラックウルフの中でも小柄だったクロは、怪我を負いながらも何とか隠れてその場をやり過ごした。
しかし命こそ助かったものの孤立したブラックウルフの運命は決まっているようなものだった。このまま一匹取り残されて死んでいくだろう、仲間を見捨てて自分だけ生き残って。そんな無様を晒すくらいなら、いっそ仲間たちと一緒にガルムに喰われてしまえばよかったとクロは思っていた。
クロは死に場所を求めていた。生き残ってしまった罪悪感を抱えてブラックウルフは迷宮を彷徨った。
そしてその日はやってきた。滅多に冒険者が訪れないこの遺跡に、冒険者の一行がやってきたのだ。
クロは隠れ潜むことを止め冒険者たちの前に身を晒した。きっと自分を退治するはずだ、やっと死ぬことが出来る。そう覚悟してもクロの体は竦み上がり震えた。襲われた時の恐怖が蘇ってくる。
死ぬことが怖かった。冒険者の一人が近づいてくる。クロは死を覚悟して目を閉じた。
だがその時は訪れなかった。クロは自分の傷の手当てをする冒険者の顔を驚いて見た。
「大丈夫よ。戦うつもりがない相手と無理やり戦ったりしないわ。それにこの怪我、痛かったでしょ?怖かったでしょ?でももう大丈夫。怖くないからね」
クロに人間の言葉の意味は分からなかった。しかし優しさと温かさは伝わった。一匹で恐怖に怯え死のうとしていたクロは、恐怖から開放されて感情が爆発した。
感謝。感謝感謝感謝。ありがとう助けてくれて。ありがとう優しく声をかけてくれて。ありがとう一匹になった自分に温かさをくれて。クロの心はその思いで溢れた。
その上レイアはクロにまた自由に動き回ることの出来る足をくれた。見たこともない珍妙なものを取り付けられた時には驚いたが、自分がまた走り回れるようになってもっと驚いた。感謝をしてもしたりなかった。
クロは恩返しがしたくなった。これだけのことをしてくれたのだから、自分もそれ以上に何かを返したい。遺跡の中をふらふらと彷徨っている所を見るに、三人が道に迷っているんじゃあないかとクロは思った。
それならば自分が役に立つ。ここで暮らしてきたこと、ガルムから逃げ回っているうちに道に詳しくなったこと、かつての仲間たちと一緒に歩いた道に連れていってあげればいい。
それからクロには三人の友達が出来た。恩返しをしているはずなのに、もっと返しきれない楽しい思い出を沢山もらってしまった。仲間がいなくなった自分にもう一度仲間が出来た。数はずっと少ないけれど、もっと深く繋がり合えていると思えた。
クロはこのかけがえのない友達を助けたいと願った。寝食をともにした夜のことは素敵すぎて忘れることが出来ない。この輝かしい思い出をくれた友達は、自分の何にかえても助けるのだとクロは心に誓った。
何とか立ち上がったクロは、よろよろとした足取りで遺跡の入口へと引き返していた。ガルムにはまだ秘密がある、アーデンたちが危険だ。誰か助けを呼ばなければ。クロはその誰かがいる予感がする方へと歩いていた。
道を引き返し始めてすぐ、アンジュが治療してくれた傷口が開いて血がぽたぽたと滴り落ちた。懸命に治療してくれたのに申し訳ないとクロは思った。だけど今はただただ歩いた。
クロは何度も転んだ。レイアから貰った足はなくなってしまった。だけど何度も立ち上がった。足がなくともクロは前に進んだ。血が流れて体力が失われていく、足はふらついたが根性で踏みとどまった。
レイア、優しくしてくれてありがとう。自由に動き回れる足まで取り戻してくれた。あんなに嬉しいと感じたことはなかった。怪我がなくてよかった。君は泣いたけれど君を守れて嬉しかった。
アンジュ、一杯撫でてくれてありがとう。仲間たちとだってあんなに触れ合ったことはない。あの温かな手はいつだって安らぎをくれた。折角治療してくれたのにごめんなさい。傷は開いてしまったけれど、治療のお陰でまだ動ける。
アーデン、沢山遊んでくれてありがとう。魔物である自分を信頼してくれた。そして一杯体を動かさせてくれた。新しい足が馴染むまで大変だろうと気にかけてくれた。大人しくしていられなくてごめんなさい。
クロの視界は殆ど真っ暗になっていた。思い出されるのは友達の記憶ばかりだ。道順は体が記憶するままに任せていた。
まだだ、もう少し、動け、クロは自分を鼓舞する。しかしとうとうぐしゃりと崩れおちた体は動かなくなった。まだ駄目だ、まだ動かなきゃいけない。クロはもう地面を捉えていない足を必死に動かしていた。
「どうしたお前!大丈夫か!?」
誰かの声が聞こえてきた。クロは何とかして首を持ち上げた。まぶたが開いていたか分からなかったが、必死に視線を動かしてもと来た道を指し示す。
「この怪我…、遺跡で何かが起きたんだな?」
肯定の意味を込めてクロは尻尾を一振りした。
「よし分かった。俺に任せておけ」
ああよかった伝わった。どうしてだろうこの人には伝わるんじゃあないかとクロは思った。その直感を信じてよかった。体からどんどん力が抜けていく、どんどん冷たくなっていく体とは裏腹に、クロの心の中は温かな思い出に満ち溢れ、最後の最後、穏やかな気持ちで一杯なままに息を引き取った。
遺跡の入口で息絶えた魔物に手を合わせ、そっと体を抱え上げた一人の男。任せておけとブラックウルフと約束したその男はある言葉を呟いた。
「イグニッション」
体に、心に、煌々と燃え上がる火が灯った。ブラックウルフから後を託された男が遺跡の道をひた走る。迷路のような道でも迷うことは一切ない、道しるべはクロが歩きながらつけてくれていた。血の道しるべは、男を仲間たちの元へと導いていた。