アンジュとサラマンドラ
アンジュはロックビルズの街の公園に訪れていた。街を見下ろすことの出来る高台にある公園は、木々や花々、整えられた芝生と最高の環境だった。
何より美しいのは公園にある風鳴き岩の音色だった。いくつも立ち並ぶ岩の間を風が通り抜けると、街では人々の喧騒にかき消されてしまう細かな音色まで聞き取ることが出来た。
アンジュは適当な落ち着ける場所を探して座ると、ある術を試そうとしていた。それはエアが用いていた竜の意識と交信した術だった。
「サラマンドラ様と交信したいッスか?」
「ええ、それも一人で話したいの。出来ればエアの手も借りずにね」
アンジュの相談にエアはむむむと首をひねった。
「私が使ったあの術をアンジュ様にお教えすることは出来るッス。でも使えるかは分からないッスよ」
「どうして?」
「正確に言えばあれは私の力じゃあなくてシルフィード様のお力だからッス。私はそれをちょっとお借りしているだけで、理屈とかはよく分かってないッス」
それを聞いたアンジュは、エアはまだ本当に成長途中の幼い子どもなのだと思った。どうして成熟した存在で竜の眷属が作られないのかは謎であったが、エアの価値観や思考力はまだまだこれから伸びるものであり、知識を多く持たない理由もそこにあるのだろうと考えた。
「取り敢えず方法と作用だけ教えてちょうだい。後は私がなんとかしてみせるから」
「分かったッス!ええとッスねまずは…」
アンジュはそうしてエアから竜と交信する術を教わった。エアの言葉は感覚的なものが多く理論立ったものは少なかったが、その少ない情報からアンジュはいくつかの条件を見出していた。
「エアの指の動きは必要ない、そもそもあれは私には使えない。竜が使うための魔法の術式だ、竜にしか使うことは出来ないだろう」
アンジュが一人になりたかった理由は、こうして声に出して頭の中を整理したかったからというのもあった。集中してぶつぶつと独り言を繰り返しても問題ない場所が必要だった。
言葉にして声に出していくとごちゃごちゃとした頭の中が整理されていく、アンジュの考え事のスタイルはいつもこうであった。
「でも術式に近いことは分かった。これを一度バラバラにして私が使えるように組み替える。不要な部分は捨てて、補強が必要な部分は足す。完成図をイメージして効率よくマナの伝達が出来るように道筋を…」
それからアンジュはぶつぶつと呟きながら頭の中で術式を構築していった。それは多くの魔法使いには真似出来ない芸当だった。
普通なら緻密な計算に様々な補助、思い描くものが正しく動くのかという膨大な試行が必要になる。アンジュはそれを思考だけで行っていた。下手をすれば脳が負荷に耐えきれず焼ききれてしまう。
しかしそれを可能とするのがアンジュが学習してきた膨大な知識と、サンデレ魔法大学校で研鑽を続けてきた経験、そして冒険の中で培った応用力と発想力だった。
思考の海にすべての要素を溶かしてかき混ぜる。アンジュはそこを漂いながら必要なものだけを取捨選択し、一つ一つ術式を構築していった。竜と人、隔絶された世界を繋ぐまったく新しい魔法が生まれようとしていた。
ハッと意識を取り戻したアンジュ。そこは先ほどまで居たロックビルズの公園ではない別の場所だった。しかもアンジュの体はそこにはなく、真っ暗な謎の空間に意識だけが溶け込んでいた。
「成功、したのかな」
それは声ではなく思考、暗黒の中でアンジュが声を発することは出来ない。一人謎の空間を意識だけで彷徨うアンジュは、じわじわと心が蝕まれていくのを感じていた。
長居はできない。本能がそう告げていた。しかしおめおめと引き下がる訳にもいかない、アンジュはサラマンドラのことを思い浮かべると強く念じた。
「お願い、来てくださいサラマンドラ。話したいことや、聞きたいことが、沢山あるの。お願い、上手くいって」
アンジュはただひたすらにそう念じた。自分の魔法が成立し上手くいっていることを願って暗黒に飲まれないようにサラマンドラを呼び続けた。
すると暗闇の中に小さな炎がボッと燃え上がった。揺らめくその炎はアンジュに語りかけてきた。
「まさか人の身でここに来ることができようとは、驚かされるなアンジュよ」
「サラマンドラ、ですね?」
「そうだ。以後我の炎にだけ集中しろ、さすれば意識も安定してこよう。まったく無茶なことをするものだ、この場は我らから招かれなければ塵すら残らず消え去ってしまう。我らの用いる術を解析したとは言え、とても危険な行為だったのだぞ」
「それでも、来ますよ、私は、仲間のために、強くなる必要があるんです」
「…そうか。しかしまず我の言われた通りに意識を集中するのだ、いいな?」
アンジュは言われた通りにサラマンドラの炎に集中し始めた。離れかけていた意識がはっきりとしてくる、心に侵食してきた暗闇も消えてきた。そして自分が呼吸が出来ていることに気がついた。
そして次に、謎の暗闇の中で自分の体がはっきりと認識出来ていること気がつく、完全に自分を取り戻したアンジュの前でサラマンドラの炎が揺らめいていた。
「サラマンドラ、ここはどういった場所なんですか?」
相変わらず周りは暗闇で、認識出来るのは自分とサラマンドラの炎だけだった。アンジュは空間の不思議な雰囲気に包まれ気分が少し悪くなる。
「我らが出会った場所と同じものだ、竜域と呼ぶ。ちなみにニンフ、シルフィード、ゲノモスもここにいる。互いに干渉は出来ないがな」
「地続きなのですか?」
「と言うよりもそういった概念すら曖昧なのだ。ここには文字通りすべてがある。だから人の身には毒だ、情報の海に浸されて自我が薄まる。やがて溶けてここの一部となってしまう」
「…ここにいると生きているという定義すらも曖昧になるということですか?」
「そうだ、流石聡いな」
立っているのか浮いているのか、上も下も右も左も分からない、だから気分が悪いのだ。ただここで意識を保つだけでも一苦労だとアンジュは思った。自分がここで意識を保っていられるのはサラマンドラの炎のお陰だ。
「それで?どうして我に会おうとした」
「サラマンドラ、最近私は夢の中であなたから貰った印が光るのを見るんです。そしてあなたの気配も。あれは何ですか?」
「ほう印が、それに我の気も。殻を破ろうとしているなアンジュ」
「殻、ですか?」
「竜の印はそれ自体には力を持たせていない。我の印を得たからといって我の力を使えるようになる訳ではない。しかし印を授けた時に言ったように我が力の一部である、そうだな、小さな我がそこに宿っている」
アンジュは右手の甲を訝しげに眺めた。そこに小さなサラマンドラが宿っていると言われてもイメージが湧かないからだ。
「だけど、それがどうして殻を破ることに繋がるのですか?そもそも私の殻ってなんです?」
「我は印を授けた際、アンジュが心にかけた鍵を感じ取った。そなたの魔法にかけての素質は唯一無二だ、冒険の旅を経て我の調整がなくとも魔法の扱いが上手くなっている。しかしアンジュ、まだ上級魔法を扱っていないな?」
「っそれは…」
「よい。心の傷というものは癒えるには時間がかかる。過去の出来事に起因していることを敢えて口にはすまいよ。だが今その心の制限を取りはらたいと思っているのではないか?」
「…そうです。私がもっと多彩な上級魔法を扱えるようになれば戦いに貢献出来ます。それだけじゃない、本当は使えるものを使わないのは、私の甘えだと思うんです」
それはアンジュの心の葛藤だった。上級魔法を扱える知識はある、それを自分の固有魔法と合わせることが出来ればアーデンたちの力になれるだろう。しかし自らが引き起こした過去の事故を思うと、仲間さえも傷つけてしまうのではないかという考えが決意を鈍らせてしまっていた。
アーデン、レイア、カイト、三人はそれでも自分を受け入れてくれるとアンジュは確信していた。だけどその優しさに甘えるのは許せなかった。優しく頼もしい仲間たち、その中で魔法を扱うことが出来るのは自分だけだった。
「私は魔法使いとしても、仲間としても、人間としても成長したい。過去を忘れることはない、罪も消えることはない。だけど私は、皆と一緒に伝説の地へと行きたい!この思いを達成することが出来れば、私はもっと夢に近づけるんです!」
「よかろう、その願い聞き届けた。我が叡智、発揮するのは今と心得た。共に考えようではないかアンジュ、そなたの夢の先、我も見てみたくなった」
揺らめく炎と一緒にアンジュは自分の心の中と向き合う、魔法の力をより引き出すために、魔法使いは魔法の真髄を求めた。