ふたつの木片
抱き合いながら横目で瑠奈を見下ろすと、いつも縋るような貌をしている。固く口を結んで、目を潤ませている。瑠奈にとって僕は大海に浮かんだ木片か何かで、手を離したら海の底に沈んでしまうと信じ切っているようだ。彼女は僕を頼っているようだったが、同時に僕の頼りなさを憎んでいるのだろう。
「……どうして私なの?」
「何が」
「誰でも良かったんじゃないの?」
遊び慣れてる男なら「君じゃないと駄目なのさ」なんて嘯くのだろうけど、幸か不幸か僕は遊び慣れていなかった。目を背けている事しかできなかった。
「私じゃなくても、良かったんじゃないの?」
「落ちついてよ」
「私じゃなくても良かったんでしょ? もっと若くて可愛い子がいたら、そっちの方をあなたは選んだ。違う?」
「落ちつけって」
「私が死んでも困らないんでしょう? 私と何もかも同じクローンがいたら、あなたは私が死んだ事に気付きもしないで、その女とこうして抱き合ってるんでしょう? 違う?」
「それは……お互い様だろ」
瑠奈の腕が力を増した。爪が刺さって痛い。息がしにくい。それでも僕は木片らしくベッドにたゆたんでいた。瑠奈のするままにさせておいた。このまま首を絞めてくれても良かった。そうして貰えたら木片よりはマシになれる気がした。でも、僕はすぐ反射的に咳が出て苦しくなって押しのけてしまうんだろうな。そして瑠奈がまた大泣きしてメイクがグシャグシャになって、手を握ってやって、暴れ回って、抱きしめてやって、何時間もかけてやっと泣き止むんだろう。そんな事は今までに何度もあった。
「どうせ……面倒な女だって思ってるんでしょ?」
「そういう所が面倒くさいんだよ」
瑠奈の手が僕の首元に掛かったが、力は無かった。ただ撫でるだけだった。もう彼女は何もかも分かってしまったんだろう。僕の首を絞めても意味が無いって事も、絶対に孤独から抜け出せないって事も。
「なあ瑠奈」
「なに?」
「こんなこと言ったら怒るかも知れないけどさ。瑠奈はさ、すごいと思うよ」
「馬鹿にしてんの?」
「僕は瑠奈みたいに孤独を感じる事はできないからさ。いや、感じる事は出来ているのかも知れないけど、すぐにどうでも良くなってしまうんだ。仕事をしたり自分の好きな事やったり、こうやって抱き合ったりしているうちに、孤独なんてどうでも良くなってしまう。でも、瑠奈は違うんだろうね。瑠奈は自分の孤独と真正面から向き合って、だからこそこんなに傷ついている」
「違う! 私は瑠奈なんかじゃない! そんな女知らない!」
「……そうか。そうだったな。でもさ、これだけは分かってくれ。僕は信じたいんだ。今この瞬間を君がこうして生きていて、心があって、身体があって、僕が僕であるのと同じように君が君である事を信じたい。たった一人の本当の君がいるって事を、心から信じたいんだ」
「私の事なんてなんにも知らない癖に!」
「たしかに、君の心の中は分からない。君が誰かすらも分からない。でも知ろうとする事はできる筈だ。信じようとする事はできる筈だ」
「バカ言わないでよ! 私はただ……あなたを利用してるだけなの! ……私は最低の女なの!」
「もういいんだよ。何だって。利用するだけ利用してくれたらいい。ただ僕が勝手に信じてるってだけなんだから」
「でも……でも……」
「もういいんだ」
瑠奈の背中に腕を回して、軽く胸を引き寄せる。なるほど、大海の木片に掴まっているような気分だ。しかし、か細い木片があまりにも愛しくて僕は孤独になる事はできなかった。瑠奈がこんなに近くにいるのに孤独になれる筈がなかった。でも、瑠奈は今この瞬間も孤独なんだろうな。孤独しか信じられない瑠奈と、瑠奈しか信じられない僕。体が触れ合っていても、二人の心はどこまでも離れている。
しかし……こんな事をしていたら、僕たちはいつか破滅するんだろうな。僕たちは間違っているんだろうな。……いや、瑠奈は違うな。彼女にはこういう生き方しか出来なかったんだ。問題があるとすれば僕の方だ。僕はもっと別の生き方が出来たんじゃないだろうか。僕は酷い間違いを犯しているんじゃないだろうか。僕がすべき正しいことは、今すぐネットで「メンヘラ女との別れ方」やら「共依存の止め方」やらを検索する事ではないだろうか。……しかしそうする気は全く沸いてこない。解説動画が垂れ流す正しさなんて反吐が出る。僕は瑠奈と離れるくらいなら間違っていた方がずっといい。
しかし……どうしてだろう? どうしてこう思えるのだろう? このまま関係を続けていけば破滅するのは目に見えているのに。……もしかしたら僕も心の底では寂しいのかも知れない。今この瞬間も孤独で、逃げ出したいのかも知れない。そんな僕の隠された気持ちを瑠奈は代弁してくれているのかも知れない。だから僕は瑠奈を信じずにはいられないのではないか。結局は……僕もこうする事しか出来なかったのかも知れない。
瑠奈の手に手を重ねる。僕の手が瑠奈の手に触れた感触だけがあって、瑠奈の手が僕の手に触れられた感触はなかった。当たり前の事だったけれど、そのことが僕には嬉しかった。