湖の女神様
気持ちのやり場を失ったわたしは、そのまま地面にへたり込んでしまう。
もぉやだ。お家に帰りたい。何でわけがわかんないことになっちゃっているの?
(たぶん道路のラクガキに入ったからニャ。春実ちゃんが悪いニャ)
「シロはわたしのせいだっていうの。イジワル言わないでよ。わかるはずないじゃん」
ボコッ。
(困ったことだニャ)
「どうしてそんなに他人事なの。シロは困ってないの?」
ボコボコッ。
(困ってるニャ。春実ちゃんの身体になっちゃったから、自由に動けないニャ。それとお腹がすいたニャ。お魚食べたいニャ)
シロはぜんぜん困ってなさそう。頼れる人がいない。心細いよぉ。
涙がボロボロ溢れて落ちていく。ジャグチが出しっぱなしになっているみたい。
ボコボコボコボコ!
「えっ、何?」
湖の方からボコボコと音が聞こえたので、へたり込んだままふり向いた。
水面から水の柱がドバって上がる。両手を広げてもまだちょっと足りないほどの太さだ。空を見上げると、先が見えないぐらいに伸びていた。
驚きすぎて、瞳と口が大きく開いて塞がらない。
(ニャ! 水がいきなり噴き上がったにゃ。まるで噴火ニャ)
「どうしてこんなことが起きるのよ!」
水の噴火はすぐに収まった。噴き上がった水が雨のように落ちてきてずぶ濡れになる。
「きゃ! やだ冷たい。冷たい!」
(濡れるの嫌いニャ! 早く身体を振って水を飛ばすんだニャ!)
思わず立ち上がり、フルフルと顔や身体を振って水を飛ばそうとした。ボブカットから水滴が飛んでいくけど効果はいまひとつ。水を吸ってしまった服に至っては効果がない。
「やだ、水が全然取れない。早く水を飛ばさないと」
でもどうしてだろ? 水が嫌いになっている。濡れているだけなのに、キッチンの黒い虫を見た時以上に嫌な気持になる。
(濡れることだけは何がなんでもダメなのニャ。本能が否定するのニャ)
シロは合体した時とは比べ物にならないほど慌てていた。
もぉ、シロってば。でもわたし、シロの嫌いな気持が移ったように水を嫌いになってる。
黄緑色のスカートをつかんで、雑巾を絞るように水を出す。しわになるだなんて気にしていられない。シロの気持ちほどじゃないけど、このままでは風邪を引いてしまう。
「ラクガキを踏んでから嫌なことばっか。少しはいいことがあってもいいのに……あれ?」
ふと空を見上げると、うっすらと幻のような虹が浮かんでいた。
「わぁ、虹だぁ。きれい」
濡れていることも忘れて、虹を眺める。七つに輝く光は明るい未来が待っているって励ましてくれているみたい。
(お空のことなんてどうだっていいから、水を飛ばして身体を乾かすニャ)
「シロうるさい。静かにしてよ。まったく、デリカシーがないんだから。でもどうして虹が出てるんだろ。雨が降った後にしか出ないはずなのに、どうして?」
「それは先ほど水の柱が上がった時に、水を降らせてしまったからでしょう」
「へー、そうなんだ……え?」
驚いて声の方を見ると、美しい女性が湖の上に立っていた。
水のように透き通った髪は、ゆらゆらとカールをかけながら腰の辺りまで伸びている。白い布を巻きつけたような服なんだけど、どこか神秘的でファンタジーの女神様みたい。頭には金色のサークレットをつけていて、中央には青く輝く宝石が埋め込まれていた。
肌もつやがあるし、胸も大きい。女の子のわたしでも見とれてしまう美しさ。男の人が見たら目が釘付けになると思う。
「私はウンディーネ。あなたは?」
「あっ、春実です」
「そう、春実ちゃんっていうの。水浸しにしてごめんなさいね。いま乾かしてあげるわ」
湖の女性、ウンディーネがニコリと微笑む。きれい。わたしもあんなふうになりたいな。
《命の水は清く流れる》
ウンディーネが歌うように唱えると、わたしの身体が青く輝いた。
「え、何? どうなるの」
びっくりしたけど、不思議と怖くはなかった。むしろワクワクする。輝きが弾けるように消えると、水に濡れていた身体が乾いていた。
(凄いニャ。濡れてる嫌な感じが一瞬で消えたニャ。これで安心ニャ)
「本当、凄い。どうしてこんなことできるの?」
「私は水を司る女神。水を使った魔法なら何だってできるわ」
「魔法って凄い。わたし初めて見たよ!」
湖の手前まで駆けよると、胸の前で手をぶんぶんと振って興奮する。猫耳もピコピコと動いていて、しっぽもピンと立っている。
「ふふっ。褒めてくれてありがとう。って言いたいところだけど、魔法を見るのは初めてじゃないはずよ。ほら、あなたの身体」
ウンディーネはしゃがんで中腰になると、顔の高さを合わせた。
「あっ、そうだった。シロと合体させられちゃったんだ」
不思議でステキなことが起こったから忘れていたのに、また悲しくなってきちゃった。
足元を見る。ピンク色のスニーカーと濡れた地面が見えた。
身体は乾いたけど、気持ちはびしょ濡れなままだよぉ。
「なんだか大変そうね。もしよかったら私に話してくれない。お喋りすることで楽になることもあるから、ね」