癒着
薄暗い部屋の中で細々とした鉛筆の音と服が擦れる音だけが鳴っている。
『ああ、なんて無様だろうか』
そんな言葉を書き連ねたところで不意に部屋を見回してみると、何ともまあだらけきった様子が伺える程度には汚れていた。一体いま書いている彼と私ではどちらが無様であろうか。少なくともこの紙きれの中の彼は私のように無精髭を生やし、暗く汚れた密室で執筆ばかりしているような不摂生な生活はしていない。
なんだ、私はどうして創作の人間程度と張り合っているのだろうと、そう考えると乾いた笑いが溢れる。気持ちの悪い人間だ。
しかしそんなことを考えていようとも右手で握る鉛筆はすうっと文字を書き連ねていく。気が付けば筆が止まってしまうことなんて滅多に無くなった。編集者によればとても凄いことのようだけれど、いまいち実感は湧かない。私は脳裏に移る景色を言葉に書き記しているだけ。登場人物も想像でしかないのに勝手に会話をするし、勝手に関係を構築している。創作なのだから私の好きに物語を進めれれば私も満足に生きていけるのだろうけれど、何とも勝手な彼等は私の知らないところで友人であったり、恋人であったり、遊んでいたり、悲しんでいたり、未来予想をし、過去を憂いている。私の頭の中で作り上がられたキャラクターでしかないのに、私はそんな彼等に振り回されている。
立場が逆転している。本来、私のような作家は登場人物にこうしろああしろと脅しをかける立場であるはずだ。しかし私は登場人物にこうしてるああしているだからそれを文字にしろと脅しをかけられているようだ。凄いと褒めてくれた編集者には申し訳ないができるならば私は筆が止まってしまうような作家でいたかった。
『現実と妄想は剥離してあるべきだ』
登場人物の一人がそんなことを言った。まさに今私が考えていたこと。どれだけキャラクターが勝手に動こうとも一人の人間の頭で作り上げられている以上、その思想が浮き出てしまうものなのだろうか。これが私を困らせる。たまにあるのだ。私が酷く共感してしまう言葉を登場人物が発することが。それが私の現実と妄想の境目に蟠りを作る。
一種の病なのではないだろうか。そう考えてしまう時もある。しかし私がこうして作家でいられている内は病院に行くこともないだろう。私の作家人生に終わりがくる日はこの命尽きる刻であるかどうかは別として。
エゴサーチというものがあるらしい。私もやったことがある。それは何ともまあ複雑な気分になったことを覚えている。好意的な意見もあれば否定的な意見もある。そんなものだとは理解しているが、勝手に動く物語を文字にしている私が賞賛されるのも批判されるのも何だか喉に引っかかりを覚える。いっそのこと今度からは作家名をつけないように頼んでみようか。
『これにて終幕、我が人生一片の悔いばかりであった』
登場人物の一人が死んでしまった。悲しい。気に入っていたのに。
しかし、一片の悔いばかりか。人生とはそんなものだろう、と思う反面、どこぞの覇者のように一片の悔いのない生涯だったと言える人生を過ごしたかったものだとも思う。この言葉を残した彼は偉大なものだ。しかし悲しいかな、彼のように悔いのない人生を送る人間は何人たりとも存在しないだろう。まあ彼は創作人物であって、現実で生きる私達と比べるものではないだろうけれど。兎に角、人は後悔を繰り返し、成長する。後悔を繰り返し生きていく。そういうものなのだ。ただ、果たして悔いばかりの人生が幸せではないと、そう言ってしまえるわけではないのだ。後悔し成長するのが人間ならば、悔いばかりの人生のおかげで立派に成長できたと捉えることもできるのだ。だから一概に後悔が不幸であるとは言えない。
まあ、私は未だ自分の人生の後悔が不幸か幸かの判断はつけられていないのだが。
『さよならは悲しいさ。だから笑うのさ』
主人公のその言葉で今回の話は終わりのページを飾った。
正直意味が分からなかった。悲しいのに笑う、そのことに違和感ばかりを覚えてしまう。私としてはさよならだから笑う、の方が腑に落ちる。さよならだから笑う。しかしそれはそれとして、さよならは悲しい。私としてはそう思ってしまう。こういうことも多々ある。登場人物の言葉が私の理解と離れたことなど慣れたものだが、それでも疑問は度々感じる。まあ、作家仲間には自分の意見を否定する文を書けるのは大前提と言われたので、態々彼の言葉を捻じ曲げるつもりはないが。
なんだろうか、やはり現実と妄想の癒着が酷いな。
閉じられたカーテンを開くと、途端に日の光が部屋を照らす。あまりの眩しさに腕で目を覆った。しばらくして光に慣れ、窓の外を見ると、家と家の間からちょうど太陽が輝いているのが見えた。
それだけで自分が現実を生きていることを自覚する。
さて、今日は何を食べようか。
僕は現実を生きてる自分が自分でないと感じることなら何度もあるんですけどね。それも現実と妄想が癒着してるんでしょうか。