第4話 扉の向こうは……
夏。
暑中見舞いを出すには遅く、かといって残暑見舞いを出すのには少し早いような頃の朝。
照りつける日差しと、それに熱せられたアスファルトが放出する熱気にたえつつ、俺――星川慧はアルバイト先を目指して、セミの鳴き声を除いては閑静な住宅街を一人歩いている。
民家のへいの隙間を見つけて、アスファルトを突き破って、あらゆる所から無理やりに生えてきた草たちは、それでもなお太陽の光を一面に受け青々と生えていて、今にも動き出しそうなくらいだ。
二年通った高校を春に退学して、アルバイトを始めてからまだ半年もたっていないというのに、最近はもう毎日がつまらないなんてことを考えるようになってしまった。
「あーあ。いっそのこと異世界転移でもできたらなー」
本音がポロリ。あわてて口をふさぐが、もう遅い。
辺りに人が居ないことを確認して、胸をなで下ろす。
こんなこと隣のおばさんに聞かれでもしたら、
「星川さん家の長男の慧ちゃんが学校をやめてついにおかしくなってしまったようなの。きっと慧ちゃんが最近アルバイトを始めたとかいうあそこの牛丼屋に闇があるに違いないわ。もしかしてこれは牛丼屋を巻き込んだ国家の陰謀か何かなのかしら」
と町中に言いふらされるに違いない。
学校をやめた時もあらぬ噂を流されて、俺は一時的に他の国家の諜報機関の特派員ということになっていたらしい。
誤解をとくのがものすごく面倒だった。
だから早足でその場から逃げる。
朝から多くの車が行き交う大通りに出て直進。
横断歩道を三つ渡ると、目の前の角地に俺のアルバイト先である大手牛丼チェーン店がある。
店の裏側へまわりこむと、「従業員専用」のプレートが貼り付けられたドアの銀色のノブを回してこちら側へ引く。
空調のきいた室内から這い出すように逃げてきた冷気が、熱を帯びた足首を包み込む。
その冷気がいつにもまして冷たく感じられる。
この間入ってきたばかりのアルバイトが、設定温度を間違えているのだろうか。
なつかしい……。そしてうらやましい。
俺も入りたての頃は毎日が刺激に満ちていて、それはもう楽しくて仕方がなかった。
初春の甘ったるい風に背中を押されながら、アルバイト先までの一歩一歩を踏みしめていたあの頃が、世界中のあらゆるものが俺の新たな生活を祝福してくれているように感じられたあの頃が、なつかしい。
……と言っても、まだ始めて半年も経っていないのだが。
突発的なノスタルジーを感じながら目線を足下から前に戻し、文字通り一歩踏み出す。
「おざまー……っす……?」
何かの見間違いかもしれないと、一度踏み入れた足を引く。
目をこすって、瞬かせる。一度ドアを閉じて、深呼吸をする。
そしてもう一度開く。
また閉じる。
また開く。
また閉じる、
……と見せかけてすばやく開く。
……が、ドアの向こうの景色はてんで変わらない。
今、俺の目の前には、一見二十歳くらいの、白いワンピースのようなものを身に纏ったうら若き女性が一人、両手を体の前に重ねて立っている。
彼女はたいそう上品に、こちらに会釈している。
誰だ? あれは。
反射的に腰が曲がり、会釈を返す。
後光が差していて顔の細かい所までは見えないが、それでも目の前の彼女が、例えるならばまるで女神のような美貌の持ち主であることはすぐに分かる。
「あっ……あの……」
「おざまーっす。星川慧さん、ですね?」
目の前の女性は、すみきった美しい声でそう尋ねてきた。
こんなに艶かしい声、初めて聞く。
「……誰!? えっ……ええ。そっ……そうですけど……」
「それならば私が誰だろうとなんの問題もありませんのでご安心を。ささ、立ち話もなんですし早くお入りください」
言われた通り、一歩踏み出して沓摺りをまたぐ。
床と壁と天井の境界が分からない不思議なその部屋はかなり明るく、外にくらべてずっと涼しかった。
小学生の夏休みに、鍾乳洞に連れて行ってもらった時のことを思い出す。
「あのー……誰、ですか? もしかして、お知り合い……だったりしますか?」
「私はあなたの知り合いではありません。女神です。そんなことより、早く扉を閉めてくださいませんか。今から一分と十四秒後に、時間帯責任者の山口さんが来ますので」
「今……なんて?」
「ですから扉を閉めてくださいま……」
「そこじゃありません。もう一つ前に」
後ろ手に半開きのドアを閉じながらもう一度聞き直してみる。
聞き間違いかもしれない。
「女神です。私はこことは別の世界の安寧維持を担当している女神、ミラ・ファートムです」
「ぬっ!?」
驚きのあまり、変な声が出てしまう。そんな俺を後目に、女神は話を続ける。
「先程、暇つぶしにこの世界の民を見下ろしておりましたところ、『あーあ。いっそのこと異世界転移でもできたらなー』と聞こえてきましたので、取り急ぎこの部屋の扉と地上のギュードンヤのジューギョーイン専用の扉とを空間操作で繋げたのです。かなり急いだので、少し疲れてしまいました」
ずいぶんと原始的な方法だが、頬をつねってみる。
痛い。すなわちこれは夢ではない。
まぶしい光にもようやく目が慣れてきて、目の前の女神の姿もはっきりと見えるようになった。