第3話 つまらない
「The proof of the pudding is in the eating.――プディングの味は食べてみなければ分からない」
と言うが、こと現代社会においては、商品棚に並べられているプディングの見た目や原材料表示、インターネットに投稿される商品レビューなどからその味を予測することはそれほど難しいことではない。
――だから、毎日がこうもつまらないのだ。
直線的な時間の流れに流されまいと岸辺のわらにすがりつくかのように、現代社会を生きる人々は変化を嫌い、代わり映えのしない日々を繰り返している。
朝目を覚まし、朝食を済ませて身支度を済ませれば家を出て、日が沈む頃に帰る。
社会人ならば仕事内容に、学生ならば授業科目に、引きこもりゲーマーならば攻略ルートに若干の違いはあっても、根本的には皆、直線の上で循環する螺旋状の時間を生きているのだ。
毎日毎日、分かりきったことのくり返し。
生きるべきか、死ぬべきか。それが問題なのではない。
いかにして今日を何事もなく過ごすか。
それが、彼らにとっての問題なのである。
そう言う俺も例にもれず、そのうちの一人である。
日がのぼる頃にはたと目を覚まし、身支度もそこそこにアルバイトへ向かう。
粛々《しゅくしゅく》と業務をこなして、日が沈みきった頃に帰路につく。
途中にあるコンビニに寄り道して、スナック菓子を買う。
家に帰ると、カーテンをしめきった部屋でオンラインゲームを起動し、しばらくして寝落ちする。
休日はたまったアニメを消化し、ラノベや漫画をななめ読みする。
かねてからの願い通りに、アルバイト先へ向かう道中で、急いで角を曲がってくるパンをくわえた女子高生と奇跡的な確率で衝突して新たな恋が始まらない限りは、または何かをきっかけに異世界へ転移しない限りは、こんな毎日のくり返しなのだ。
別にそうありたいと願ってこんな暮らしを送っているのではない。
そこに理由があるのだとすればきっと、惰性――精神に働く慣性力とも言えるだろうか――に身を任せていた方がラクだから、だろう。
そうだ、要するに新しいことを始めるのが単にめんどくせーのだ。
だから、選択の連続であるはずの日常において、俺も含め人々は同じ選択をくり返しがちなのだろう。
例えば、今朝は歯をみがくかどうか、学校へ行くかどうかなどと毎日毎日考える人はほとんどいない。
答えは皆、いつもみがいているんだから今日もみなく、いつも行っているんだから今日も行く、なのである。
ここで人々は、選択するかしないかの選択を放棄していると言っても過言ではない。
安定を至高とし、変化をきらうことで、せっかくの選択の権利をないがしろにする。
――本当に、つまらない。
しかし、それもこれもすべては「現代社会においては」の話である。






