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「お昼は冷蔵庫の中にありますので、チンして食べて下さいね。食べ切れない場合はラップをして冷めてから冷蔵庫に入れて……あ、ラップはテーブルの上に置いてあります。食器はそのまま。冷たい飲み物は避けてくださいね。夕飯前には戻ってきますので、絶対に、いいですか、絶対に作ろうとしないで下さい。包丁はヒトを殺せる鋭利な凶器です」

「わたしとっくに成人してるんだよなぁ」

「おやつはプリンがありますからね」

「はい、ママ」


スーツに袖を通した美丈夫が、慌ただしく玄関に向かう。歩きながら伝えられるそれらは、出勤前の母親が幼い子どもに向けたものに近い。

小柄な女性は揶揄うように返事をする。元気な声色とは対照的に、壁に手をついて歩く姿は生まれたての子鹿に近い。


「あ、あっ、やっぱりこんなよちよち歩きの那緒さんを残して仕事に行くなんて……無理」

「よちよち歩きって」

「立って歩いてる……ヴッ、感慨深いですね」

「成長を噛み締めないで、パパ」

「こんな可愛い娘を置いてなんで外に行かなくちゃいけないんだ!家でだってちゃんと仕事してただろ!くそっ」

「急にキレるじゃん。情緒不安定かよ」


唐突に父性を爆発させる美丈夫の背中を見下ろす。靴も履いて準備万端だというのに、こちらを見上げた彼に動く気配はない。

あとは鞄を持って玄関を開けて外に出るだけ。そう、それだけなのだが、このあと少しが妙に気怠いのを那緒はよく知っている。

なぜ、朝早く会社に行かねばならないのか。

家でも仕事は出来るではないか。

わざわざ会社に出向いて辛気臭い同僚の顔を眺めながら、威張り散らした上司の声を聞くよりも家で猫の声を聞きながら仕事をしたほうが100倍捗るのに。

鬱々と身体が重くなる感覚は、毎朝の恒例行事である。理解はしている。だが、それが可愛らしいお猫様ではなく自分に向けられるのは気持ち悪いから止めて欲しい。

那緒の顔に不快の二文字が浮かぶ。


「はぁ……しんどい。那緒さんが行ってきますのちゅ、ちゅちゅ、ちゅー(小声)とかしてくたら元気になるんですけど(大声)!」

「那緒ぉこどもだからぁむずかしいことわっかんなぁい」

「あぁぁあ!可愛いですねぇぇぇえ!!」

「宇久森きもい」


おっと、口から本音が。

これ以上駄々をこねられては困る。慌てて口をつぐみ様子を確認する。無問題だった。先程よりもグッと血色が良くなった小綺麗な顔が、キラキラとした瞳でこちらを見上げていた。

呼吸の代わりにため息が漏れる。

宇久森にとっては応援より罵倒の方が良い薬になるようだ。


「朝から良いものを頂きました……」

「噛み締めんな」

「あ、そろそろ行かなくては。楽しい時間はあっという間に過ぎて行きますね」

「もしかしてここでの会話も時間に含めてたの?怖いんだけど」

「定時には上がってダッシュで帰ってきますから、くれぐれも無理をしないで下さいね。転んだら本当に洒落にならないので」

「おばあちゃんじゃん」

「お返事をくださらないとペット用のカメラを設置して四六時中監視しますよ」

「那緒、けがにんだからおとなしくしゅる」

「はい、お願いしますね」


扉の隙間から名残惜しそうに手を振る宇久森に那緒は手を振った。脳裏を過った( 道を塞ぐ部下を薙ぎ倒し、笑顔で会社から出て行く )姿を振り払うように手を振った。







さて、なぜこうして那緒が宇久森を朝から見送るはめになっているのか。

ことの発端は宇久森のパソコンに届いた1通のメールだった。解約通知書に記入するしないで問答していたふたりのもとに、ポンッとやってきたメールは宇久森を震撼させた。内容は簡単に要約すると「会社に来い」という出社の催促。

唐突に発生した外出クエストに、那緒は両手を上げて喜んだ。対照的に宇久森の気分は目に見えて下がった。マウスをギリギリと言わせながら、液晶画面を睨め付ける宇久森の顔は生涯忘れられないだろう。


「.........っ!んんぐっ........!」


宇久森の気分は働いた金を那緒に貢げる幸福と、那緒から離れなければならない絶望でジェットコースターのように上下していたが、冒頭通り朝になると折り合いがついたのか玄関先で駄々をこねたが無事に出掛けていった。

カシャン、ガシャン、ガチャ、ガチャガチャ、パチン、カチ。


「いや、鍵の数多いな」


内鍵だけじゃなくて外鍵まであるだろう。

頬を引き攣らせるが、遠のいて行く足音に肩の力が抜けて行く。すぅと息を深く深く吸って、吐き出した。


「あぁぁ……自由だわ」


基本的に那緒は自由だ。

手枷はあるが行動を制限されることはない。家の中を歩き回ってもされるのは心配ばかりで、文句などひとつも飛んでこない。

だが、真の意味で自由かという答えはNOだ。他人の存在は良くも悪くも気を使う。どうにも心は休まらないでいた。

それが唐突に解決した。

ふっと湧いた幸福を那緒は噛み締める。

プルプルと限界を告げるように震え始めた足を引きずって、ふらふらとキッチンに向かう。しがみつく様に冷蔵庫を開ける。オレンジジュースを取り出してコップに注いだ。その場で一口。


「ああぁぁ.......お高いオレンジの味」


昼間から酒を飲むような背徳感。口内に広がる甘酸っぱさに、思わずくぅーと喉から声が漏れ出す。口の端をペロリと舐める。

てこてこと危なげな足取りでソファに近付きゆっくりゆっくり腰を下ろす。ゆるゆると脱力し両手足をソファに投げ出し、またオレンジジュースを一口。

美味しい。

ほくそ笑んで、お終い。

動く気配はない。コップを握る手には相変わらず無骨なベルトが巻き付き、身動きするたびにチャラチャラと金属音が鳴る。視界に入っていないわけではないのに、那緒は手枷を外す素振りを見せない。

それどころか、宇久森不在という絶好のチャンスにアクションを起こす気配すら無い。親を見送った夏休みの子どものように、リビングでのんべんだらりと自由を堪能するしている。

脱出を諦めてしまったのか。

いや、そうではない。

では宇久森の「保護」を完全に信じたのか。

そんなわけがない。複数犯の可能性を否定しないだけで、半分はしっかりと疑っている。

ではなぜ動かないのか。

那緒は監視カメラの存在を疑っていた。


( 犯人不在の間に脱出を試みた主人公だけど、実は監視カメラで動向を確認されていて扉の前で捕獲。監禁が重くなるっていうのが映画とかでは常識だけど......)


嘲笑うように扉の前で待機する犯人の顔を思い出す。配役がピッタリ過ぎて、ゾワリと背中が寒くなる。誰もいないのについ後ろを振り返ってしまった。

良かった、誰もいない。

ほっと息を吐いてソファに身体を沈める。

宇久森は枷を増やしたりはしないだろう。那緒の身体に負担をかける行為を極端に嫌っているから、監禁に切り替えるとも思えない。

だがなにかしらのペナルティは発生する。この生活はそれぐらいリスキーなものだ。彼が理解していないはずがない。


( 脱出するなら万全の状態で確実に。元気に走り回れるようになってからが本番 )


いまやるべきことはそれじゃない。

言い聞かせるように胸に手を当て、窓から視線を逸らす。無策のまま行動して難易度が上がれば、出られるものも出られなくなる。

ふぅ、と息を吐いた。

いま那緒が取るべきは行動は、情報の精査•収集•更新。身体の準備が整ったときのための準備。宇久森からもらった情報の真偽を見極めるために、身近な物ーーテレビから情報を得ることだ。

リモコンを手に取る。コップに口をつけると、片手でリモコンの電源ボタンを押した。


ピッ。


『みんなぁあ!ねずみのキューたんと一緒に歌ってぇぇぇえ踊ろう!』

『きゃー!』

「んぶっ!?」


元気な掛け声。45インチテレビいっぱいに映し出されたファンシーな空間に、たまらずオレンジジュースを吹き出した。

咽せる那緒を他所に、画面の向こうではネズミの着ぐるみがコミカルなリズムに合わせてステップを踏んでいる。蜂や蝶々の格好をした子どもたちがその周りで揺れたり、踊ったりと動き回って楽しそうだ。


「ゲホッ!あっ.......鼻にはいった」


痛みで鼻を押さえる。

唐突に与えられた衝撃に鼻も腰も痛いが、じわじわ込み上げてくる感情に口角が上がる。

テレビは消したときに見ていたチャンネルを次に電源を入れたときに表示する仕組みだ。つまりはそういうこと。


「うっそ、あの顔でキューたんに手を振ってたら絶対に笑う!ふはっ!ギャップとかそういうのじゃ片付けられないぞ。え、無理なんだけど.....ひっ、顔見たら思い出して吹き出しそう.....」


那緒はそっと目を閉じる。

仕事をしながら教育番組を眺める宇久森の虚像が、脳内で再現されて吹き出す。無理だ。記憶から消去するにはあまりにもインパクトが強い。国民的キャラクターを無表情で罵倒できそうなのに、実は可愛いものが好きとは。


「あはっ、可愛いとこあるじゃん。良かった良かった」


那緒以外に関心が向いている。

それは彼女にとって安心材料になる。執着するモノが複数あるならば、それだけ手を離してもらえる確率が上がるからだ。


( これでわたし以外に向けば完璧なんだけどな )


あの異常過ぎる執着心は良識のある素敵な他人(だれか)に向けるべきだ。早々に手を離して、見返りを求められる相手に。どうか、どうか、わたし以外の誰かに。


那緒は知らない。彼が教育番組を見始めた理由が“那緒に健康的で美味しい料理を食べさせること“であることを。子ども向け番組を無表情で眺めるどころか、このテレビが設置されたまま那緒が来るまで稼働していなかったことを。そもそもテレビを購入した目的は、那緒がテレビっ子であるからだということを。


「あ、キューたん」


ファンシーなネズミのキャラクターを無邪気な瞳で眺める彼女だけが、宇久森の執着心の濃度に気付かない。





続き日記です!10分後に投稿しますね!

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