「好き」ってなんなん?
賢く見えたら嬉しいな
好きとは一体なんなのだろうか。
人の全ての感情の起因であり、それ故原動力でもある。好きなものがない者など人類誰一人としていない。
行動の裏には常に好きという感情が蠢き、時には怒りに、時には憎しみに、時には悲しみに。様々な感情への変化と共に人々を動かし続ける。
常に仕事を求め働く者は、仕事かお金かはたまたそばにいる恋人か。
常に己の肉体の研磨に励む者は、力か鍛え抜かれた筋肉の美貌かはたまたそんな己自身か。
特にこれといって何もしてない者は怠惰か、均衡か、はたまたそんな現状を愛しているのかもしれない。
人は如何なる行動を起こしていようとそれらの根底には「好き」という感情がある。
ここまで肩苦しくものを語ったがここからは少し砕けた言葉で話していこうと思う。
いきなりこんな後で見たら恥ずかしくなりそうな文章を打ち込んだのにはちょっとしたきっかけがある。
なんてことはない、ただの友達との喧嘩である。
「じゃあもう友達やめるか」
カッとなっていた友が私に向かって言った言葉である。
私にとって友はかけがえのない何者にも変え難い存在であった。長年の時を一緒に過ごし、様々な苦楽を共にした。忘れられない思い出などいくらでもあった。もちろん私はその友のことを「好き」であった。
この言葉を聞いた時何より恐ろしかったのは「好き」だったはずの感情は「怒り」に移り変わり、それが言葉となってお互いに傷つけあった。
結局、その後お互いに謝り、事なきを得た。
結果的に見るに私たちの関係は簡単には切れない物なのだろう。
喧嘩の後に私と友のお互いに対する「好き」という感情が失われることはなかった。
昔からネットを騒がせている言葉で「にわか」というものがある。にわかは突然に、急に、という意味を持ち、何かを好きになりたての状態でファンを名乗っている人のことを指すらしい。
この「にわか」の存在は、様々な界隈で忌ましめられ、淘汰されてきた。
人はそのものに詳しくないと好きになってはいけないのか、では何故淘汰の対象になるのか。好きに他人は関係あるのだろうか。他人が介入すべきものなのだろうか。
またまた話は変わるが私は「VOCALOID」通称ボカロと言われる文化が「好き」である。
最新の音声合成ソフトを用い、紡がれる音楽の数々。何度聞き、何度心を救われたことか。
2007年に彗星の如く現れた、藤田咲さんが声を担当する「初音ミク」。元々MEIKOやKAITOなどVOCALOIDは存在していたが世間に知られるようになったのはここからだろう。私も2007年に初音ミクの発売とともにVOCALOIDの存在を知った。
徐々にニコニコを初めとするネットの世界に浸透した頃、機械音声に慣れない人も多くVOCALOIDの文化を蔑んだ目でみるひとも多かった。
それでもたくさんのクリエイターのおかげでVOCALOIDは今や若者を中心に絶大な人気を誇る音楽の一つのジャンルとして昇華した。
ここで私の話に戻らせてもらうが、発売した当初の私は様々な曲に感化されVOCALOIDの文化に惚れ、憧れていた。
しかし今になって思うことは私が好きなのはその時にそのクリエイターが作っていた音楽であり、覚えきれないほど増えたミリオン達成の曲を頭に叩き込む日常では決してなかった。しかし知らない曲があると無性に聞かねばと思い、感情を無にして頭に叩き込む。もちろんいい曲も沢山あった。それでもあの頃感じた驚きと感動に比べたらやっぱり見劣りしてしまう。
最近はVOCALOIDの中で最も古いMEIKOの15周年というめでたい年であった。そんな中で懐かしい曲を見る度に
ひしひしと自分の愚かさを感じるようになっていた。
恐ろしい程の自分語り失礼した。書けば書くほど書きたいことが増えていく。気分を悪くされた方は申し訳ない。
最も気分を悪くした方がここまで読んでいるのかという話ではあるが。
さて、話ばかりが膨らんでまとまっていないのにこれ以上膨らんでも仕方ないので、ここらで終わらせてもらうとしよう。
筆者には手に余る議題で筆を進めて言った訳だがどうだっただろうか。
「人」と「好き」という感情が密接に関わっているのは間違いないだろう。人類という種が存続するために必要ものなのだから。
そんな好きに囚われ、本来の目的を見失わぬ限り、好きは人類に生きる希望を与えてくれるだろう。
まぁ、とりあえず自分の「好き」に生きていこう。
うーん、難しいですね。
なんとなく僕の言いたいことが伝わっていれば嬉しいです。