表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

翻訳

新訳・幸福な王子

作者: 高石すず音

オスカー・ワイルド原作『幸福な王子』の翻訳です。

街中まちなかに、ひときわ高くそびえる柱があります。幸福な王子の像は、その上から街を見守っていました。


彼は眩いサファイアの双眸そうぼうをもち、全身には金箔が施され、つるぎつかには大粒の赤いルビーがあしらわれていました。王子は本当に、人々に愛されていたのです。


目利きのイメージを植え付けたい市議会議員がいました。彼は王子を評して、こう言いました。


「風見鶏のように美しい」


けれども、こうも付け加えました。


「風見鶏のように有用ではないが」


彼は夢想家ではありませんでしたが、少しでもそんなふうに思われるのが嫌だったからです。


「お月さまが欲しい」と言ってむずかる男の子がいました。よく出来た母親は、こう言って息子を諭しました。


「幸福な王子を見てごらん。そんなふうに駄々をこねたりしないだろ」


失意の中にある男は、立派な像を見つめて呟きました。


「この世にはとても幸せな人がいる。それで僕は幸せさ」


孤児院の子供達が、真っ白なエプロンドレスに真っ赤なマントをまとい、大聖堂から出てきます。子供達は王子を見て「天使様みたいだ」と言いました。すると、数学の教師が尋ねました。


「どうしてそんなことがわかるのかね? 今まで見たこともないのに」


「それは……夢の中に出てきたからです!」


答えをきいた教師は眉をひそめ、険しい顔つきになりました。子供達が夢見ることを、快く思っていなかったのです。


*****


ある晩のこと。小さなツバメが一羽、この街の上空を飛んでいました。


仲間のツバメがエジプトへと飛び立ってから六週間。彼がこの地にとどまっているのは、この上なく可憐な葦と恋に落ちたからです。


春のはじめ、ツバメが大きな黄色い蛾を追いかけて川を下っていく途中、細腰でしなやかな佇まいの葦に目を奪われました。彼は真っ直ぐに想いを伝えたくて、たまらず話しかけました。


「あなたが好きです。僕とお付き合いしていただけませんか」


すると、葦もそれに応えるかのように深くおじぎをしました。


ツバメが葦のまわりを旋回します。水面に両方の翼を滑らせると、銀色に煌めく小々波が立ちました。こうして、夏の間ずっと、求愛は続きました。


「あいつも物好きだよな。あの女は無一文。おまけにとんでもない浮気性で大家族ときたもんだ」


他のツバメが噂するとおり、川辺には葦がびっしりと生い茂っていました。


*****


秋になると、ツバメ達は南へと飛び立ちます。仲間がいなくなり、淋しくなった彼の心は、口をきいてくれない恋人から離れ始めていました。


(風が吹くと、彼女はいつも身体をくねらせる。こんなの、誰彼構わず誘惑しているみたいじゃないか)


実際に、風が吹くたびに、葦はこの上なく優雅なおじぎをするのです。


(僕は旅を愛している。彼女が家族思いなことはわかっているけれど、僕の伴侶なら、旅を愛するべきなんだ)


そして遂に、彼は気持ちを打ち明けました。


「僕と一緒に旅に出てほしいんだ」


しかし、彼女は頷いてくれませんでした。川岸に根ざした葦は、その場所を離れることができないのです。


「僕とは遊びの関係だったんだね」


ツバメは声を荒げました。


「もういい、僕ひとりでピラミッドの国へ行くよ。さようなら」


こうして、ツバメの恋は終わりを告げました。


*****


ツバメは夜になるまで飛び続け、この街に辿り着きました。


「さて、どこで夜を越そう。適当な場所があるといいんだけど」


すると、高い柱の上の像が目に留まりました。


「よし、あそこにしよう。風通しも良さそうだ」


ツバメが降り立ったのは、幸福な王子の足もとです。両脚のあいだが、ちょうど良いねぐらになりました。


「金ぴかの寝室だ……」


ツバメはまわりを見渡して呟きます。眠りにつこうと翼に頭をうずめた、ちょうどその時。大粒の水滴が落ちてきました。


「ああ、驚いた! 雲ひとつないし、星はこんなに輝いているのに、雨が降るだなんて。北欧の空は酷いもんだね......。そういえば彼女、雨が好きだったなあ。でもあれはただ、本人に都合がよかったっていうだけのことさ」


水滴がまたひとつ、落ちてきました。


「この像じゃ、雨よけにもならない。仕方ない、ちょうどいい煙出けむだしを探そう」


像から飛び立とうとすると、また水滴が落ちてきました。


ツバメが水滴のもとを辿ると、そこには幸福な王子がいます。瞳から涙が溢れて、金色の頬を濡らしているのです。月光に照らし出されたその顔はあまりにも美しく、悲しみに満ちていました。ツバメは不憫に思い、像に話しかけました。


「あなたは誰?」


「私は『幸福な王子』」


低くよく通る声が降ってきました。


「どうして泣いているのです? おかげで僕は、びしょ濡れになってしまいました」


すると、王子は語り始めました。


「私が人間だった頃、サン・スーシ宮殿に住んでいた。この世の憂いとは無縁の場所。昼間は友人達と庭園で過ごし、夜になれば大広間で舞踏会に興じる日々だった。高い塀が張り巡らされ、私はそこで美しいものだけに囲まれて暮らしていた。塀の向こうのことなど、知る由もない。家来は皆、私を『幸福な王子』と呼んでいた。何不自由ない生活を幸福というのなら、私は名前のとおり幸福でーー幸福に生き、幸福に死んだ。私が世を去った後、人々はこの高い場所に私の像をつくった。此処は見晴らしがいい。この街の醜さも、悲しみも、全て見渡すことができる。けれど、今の私にはーー鉛の心臓の私には、涙を流すことしかできないんだ」


(彼の黄金がメッキだなんて……)


ツバメは耳を疑いましたが、決してそれを口にはしませんでした。


「遠くの小さな通り沿いに、窓がひとつだけ開いた貧しい家がある。お針子の女性がひとり、痩せこけて疲れきった顔でテーブル脇に座っている。手は針の刺し傷だらけ、荒れ放題で真っ赤だ。彼女がトケイソウの刺繍をしているサテンのガウンは、女王に仕える侍女の中でも最も美しい者が、今度の舞踏会で身につける品のようだ。部屋の隅のベッドで、まだ幼い息子が病気の熱にうなされて、オレンジを欲しがっている。母親は川の水しか与えてやれず、子供が泣いている。ツバメよ、小さなツバメ。私は両脚が台座に留めつけられていて、動くことが叶わないのだ。私のかわりに、この剣の柄からルビーを外して、あの女性に届けてやっておくれ」


しかし、ツバメにはエジプトで待っている仲間がいます。


「僕の仲間は今頃、ナイル川のほとりで飛び回り、大きな蓮の花と戯れていることでしょう。彼らはもうすぐ、ファラオの墓で眠りにつきます。美しい棺の中、亜麻布あまぬのくるまれたファラオのミイラが、淡色あわいろの翡翠の首飾りを纏い、両手を枯葉のように折り重ねて眠っていることでしょう」


「ツバメよ、お願いだ。ひと晩だけそばにいて、私の使いを頼まれておくれ。男の子は喉がカラカラで、母親はひどく悲しそうだ」


「僕は人間の男の子が苦手です。去年の夏、川辺で翼を休めているといつも、二人で寄ってたかって石を投げつけてくる粉屋の乱暴息子がいました。そんなもの、ツバメなら簡単にかわせてしまいます。僕はすばしこさにかけては随一の家系の血を引いていますから、石が当たる筈などありません。でも、人間の子供に揶揄からかわれて、酷い目に遭ったのです」


そうは言ったものの、幸福な王子の悲しげな表情に、ツバメの心は痛みました。


「わかりました。ひと晩だけなら、あなたの使いを務めて差し上げましょう。ツバメの僕に、此処はもう寒すぎますから」


「ありがとう、小さなツバメ」


ツバメは王子の剣の柄から大粒のルビーを取り外し、嘴に咥えると、街の遥か上空へと消えてゆきました。


*****


大聖堂の塔の上からは、大理石造りの天使の彫刻が白く浮かび上がって見えます。ツバメが宮殿を通るとき、舞踏会の音楽が漏れ聴こえてきました。ひとりの美しい女性が、バルコニーで恋人との会話を楽しんでいます。


「今夜は星が素敵だね。僕らの愛と同じさ」


「こんどの舞踏会に合わせて、トケイソウの刺繍の入ったドレスを注文したのよ。でも、お針子はいつも仕事が遅いから、間に合うかどうか心配だわ」


川を越えると、船のマストがランタンの灯火に照らされていました。ゲットーに差し掛かると、年老いたユダヤ人の両替商が硬貨を銅秤どうはかりにかけています。


そして遂に、あの貧しい家に辿り着きました。部屋を覗いてみると、少年が熱にうなされてベッドに横たわり、疲れ果てた母親は眠っています。ツバメは中に飛び込むと、大粒のルビーをテーブルの指ぬきの側に置きました。そして、ベットの上をゆっくり旋回しながら翼をはためかせ、少年に風を送ってやりました。


「ああ、気持ちがいいなあ……僕はきっと元気になるんだ」


少年はそう言って、心地よい眠りに落ちました。


*****


ツバメは王子のもとへ戻ると、さっきまでの出来事を話しました。


「凍えそうなくらい寒いのに、不思議です……心がとても温かくて」


「それはきっと、お前が良いことをしたからだよ」


小さなツバメは考えごとを始めましたが、いつの間にか眠りに落ちていました。考えごとをすると、どうしても瞼が重くなってしまうようです。


*****


夜が明けて、ツバメは川へ水浴びに出かけました。ちょうどその時、鳥類学の教授が橋を通りかかりました。


「冬にツバメがいるぞ! これは大発見だ」


教授がこの出来事を論文に纏め、地元の新聞社に投稿すると、巷はその話題で持ちきりになりました。驚きの声が其処彼処そこかしこから上がります。


(今夜こそ、エジプトへ旅立つんだ)


ツバメは決意を胸に、街の名所を全て巡り、教会の尖塔の上でのんびり過ごしました。スズメ達は彼を見て「なかなかお目にかかれないお客人だ」と歓声を上げます。彼はとても充実した一日を過ごしました。


*****


月が昇る頃、ツバメは幸福な王子のもとに戻りました。


「王子さま、僕はこれからエジプトに向けて出発します。何か言伝ことづてがあればお預かりします」


幸福な王子は言いました。


「ツバメよ、小さなツバメ。もうひと晩、此処に留まってはもらえないだろうか」


しかし、ツバメにはエジプトで待っている仲間がいます。


「僕の仲間は明日、ナイル川の二つ目の大瀑布だいばくふへと出発するのです。パピルスそうの茂みで、カバがひと休みしているような場所です。巨大な玉座についたメムノンしんが、ひと晩じゅう星を眺め続け、明けの明星を認めると歓喜の声を上げ、再びの眠りにつくのです。昼になると、黄色いライオンが水飲み場を訪れます。双眸は緑柱石りょくちゅうせきのように輝き、その咆哮は瀑布の轟を凌ぐほどです」


それでも王子は続けます。


「ツバメよ、小さなツバメ。この街のずっと向こうの屋根裏部屋に、ひとりの青年がいる。彼の机は書類に埋もれていて、机の脇のコップには枯れたスミレがひと束、挿してあるだけだ。青年は褐色のクセ毛で、唇はザクロのように赤く、大きな瞳には夢が宿っている。彼はちょうど、劇場主から頼まれた戯曲を書き上げようとしている。けれど、暖炉の火は消えたまま、凍えた身体で続きを書くこともできず、飢えと寒さで気を失いかけている」


すると、心優しいツバメは答えました。


「わかりました。もうひと晩だけ、あなたの側にいます。それでは、僕にルビーをもうひと粒、お預け下さい」


「すまない。もうルビーはないのだ。私に残されているのは、このサファイアの双眸のみ。一千年前にインドで切り出された、稀少なものだ。片方を刳り抜いて、彼に寄越してやってくれ。宝石商に持って行けば、そのお金で食べ物や薪を買い、戯曲を書き上げることができるだろう」


ツバメは涙ながらに訴えました。


「王子さま、いくらなんでも、そんなことはできません」


「ツバメよ、小さなツバメ。いいんだ。私の言うとおりにしておくれ」


ツバメは言われたとおり、王子の目を刳り抜き、作家を志す青年のいる屋根裏部屋へと向かいました。


屋根に穴があいていて、そこをすり抜けると、彼の部屋に簡単に入ることができました。青年は両手に顔をうずめたまま、ツバメの羽音はおとに気付きませんでした。


青年が顔を上げると、枯れたスミレの脇で美しいサファイアが煌めいています。


「これはきっと、どこぞの高貴な方からの心付けに違いない。僕は売れっ子作家の一歩を踏み出したんだ。よし、戯曲を書き上げる力が湧いてきたぞ」


青年はとても幸せそうでした。


*****


翌日、ツバメは波止場を訪れ、大きな船舶のマストで翼を休めていました。ちょうど、水夫達がロープを大きな貨物に引っ掛けて、船倉から積み下ろしているところです。


()()()巻け!」


力強いかけ声とともに、貨物が運び出されます。その様子を眺めながら、ツバメは人知れず、決意を新たにしました。


「今日こそ、エジプトへ行くんだ……!」


*****


「お別れの挨拶に参りました」


月が昇る頃、ツバメは幸福な王子のもとを訪ねました。


「ツバメよ、小さなツバメ。もうひと晩、此処に留まってはもらえないだろうか」


「王子さま、もう冬です。そろそろこの街にも、冷たい雪が降り始めるでしょう。エジプトでは、青々とした椰子の木に暖かな日差しが降り注いでいます。クロコダイルが泥の中に身を沈め、ゆったりと景色を眺めていることでしょう。バールベック神殿では、仲間達が巣作りに勤しんでいて、ピンクや白の鳩がその様子を見守り、愛らしい声で囀っています。王子さま、僕はおいとましなければなりませんが、あなたのことを決して忘れません。春になれば、あなたが差し出したものに相応しい、美しい宝石をふたつ、携えて戻ってきます。薔薇の花よりも鮮やかな赤いルビーと、母なる海よりも深い青のサファイアを持って参りましょう」


それでも王子は続けます。


「この広場で、マッチ売りの少女が涙に暮れて立ち尽くしている。マッチを溝に落としてしまい、売り物が全部だめになってしまった。お金を持たず家に帰ると、父親が手を上げるのだ。彼女は靴も靴下も履かず、頭に何も被っていない。小さな顔が吹きさらしになっている。私のもう片方の瞳を刳り抜いて、彼女に渡してやっておくれ。そうすればきっと、父親にたれずに済むだろう」


すると、ツバメは答えました。


「王子さま、もうひと晩、お側にお仕えすることはできます。けれど……瞳を刳り抜くなど、とてもできません。今度こそ、あなたは何も見えなくなってしまいます」


「ツバメよ、小さなツバメ。いいんだ。私の言うとおりにしておくれ」


ツバメは王子のもう片方の瞳を刳り抜くと、少女のところへ飛んでゆき、掌に落としてやりました。


「わあ、きれいなガラス玉!」


少女は声を弾ませて、家路を急ぎました。


*****


ツバメは王子のもとへ戻りました。


「これからは僕が、いつ何時なんどきも側にいて、あなたの目となりましょう」


王子はもう、何も見えません。


「ツバメよ、それはいけない。どうか、エジプトに行っておくれ」


それでもツバメは、王子の足もとで眠りにつきました。


「いつ何時も、あなたの側にいます」


*****


翌日はずっと、ツバメは王子の肩にとまり、これまでに異国の地で見聞きしたことを話しました。


赤いトキがナイル川のほとりにずらりと並び、嘴で黄金の魚を捉えているという話。砂漠にはスフィンクスがいて、この世界と同じくらい高齢で全てを知っているという話。ラクダを従えたキャラバンが、琥珀の数珠を手に、ゆっくりとを進めているという話。エボニーのように深い肌色の王が、月の山脈を統べ、大きな水晶を崇めているという話。椰子の木に緑の大蛇が棲んでいて、ハニーケーキを供える二十人の僧侶が仕えているという話。大きな葉っぱの船に乗った妖精が広大な湖を行き来し、いつも蝶と攻防を繰り広げているという話。


「親愛なる小さなツバメよ、お前の話は驚くことばかりだよ」


幸福な王子は、ツバメの話に耳を傾けていました。けれど、それよりもっと不思議に思うことがありました。


「どうして人は、苦しみや悲しみに耐えねばならないのだろう。これ以上の不条理は考えられないよ。ツバメよ、小さなツバメ。この街の空から見たことを、私に教えておくれ」


*****


ツバメはこの広い街を上空から眺めました。富める者は、美しく快適な住まいで贅の限りを尽くし、貧しき者は、富める者の屋敷の門前で力なく腰を下ろしています。


寂れた路地裏を覗くと、お腹を空かせた青白い顔の子供達が、真っ暗で先の見えない道に虚ろな視線を投げかけています。


橋の袂では、まだ幼い男の子が二人、身を寄せ合って寒さを凌いでいます。


「ああ、お腹がすいたよ……」


すると、夜警の男が怒鳴りながらやって来ました。


「おい、ここで寝るんじゃない!」


二人の男の子は、雨の中へと消えてゆきました。


*****


ツバメは王子のところへ戻ると、街で見て来たことを話しました。


「私は黄金で覆われている。金箔を一枚ずつ剥がして、貧しい人々に分けてやっておくれ。人間として生きる者は、きんがあれば幸せになれると信じているから」


一枚、また一枚と、ツバメが金箔を剥がしていきます。そして遂に、幸福な王子は全ての輝きを失い、灰色の像になりました。


王子の金箔は一枚一枚、貧しい人々に届けられました。路地裏にいた貧しい子供達は、ぐんぐん血色が良くなって、道端で遊ぶようになりました。


「もうお腹がぺこぺこにならずに済むんだ!」


子供達の楽しそうな声が響いています。


*****


やがて、雪が降り始め、霜が街を覆い尽くすようになりました。家々の軒先からは氷柱つららが垂れ下がり、通りは煌めく銀世界です。


行き交う人達は毛皮を纏い、あのとき橋の袂にいた男の子ふたりは、真っ赤な帽子を被ってスケートをしています。


寒さは日に日に厳しさを増し、ツバメは凍えそうでした。けれど、決して王子の側を離れようとはしませんでした。王子を心の底から愛し、慕っていたからです。


ツバメは、パン職人が目を離した隙にパン屑を啄ばみ、空腹を凌ぎました。翼をはためかせては、冷えきった身体を温めようとしました。


それでも、小さなツバメの命の灯火ともしびは、もうすぐ消えようとしていたのです。


*****


「親愛なる王子さま、お別れの時が来たようです」


ツバメは最後の力を振り絞り、王子の肩に飛び乗りました。


「最後に、お願いがありますーーあなたの手に、くちづけることをお許しいただきたいのです」


とても小さく、微かな声でした。


「いよいよエジプトに旅立つのだな、小さなツバメよ。それはよかった......。本当に長い間、世話になった。くちづけは、この唇にしておくれ。私もお前を愛しているのだから」


そして、幸福な王子と小さなツバメは、くちづけを交わしました。


「僕がこれから向かうのは、エジプトではありません。黄泉の国です。今夜の眠りは、少し長くなりそうです」


ツバメはそう言い残すと力尽き、王子の足もとで動かなくなりました。


その瞬間。王子の像の内側から音がしました。まるで、何かが壊れたような、不思議な音ーー王子の鉛の心臓が真っ二つに割れた音だったのです。


それはそれは、凍てつくような寒さの夜でした。


*****


翌日の朝早く、この街の市長が議員達と連れ立って、この広場を歩いていました。


「これはまた、見窄みすぼらしい『幸福な王子』だな」


像の台座の前に差し掛かると、王子を見上げて驚嘆の声をあげました。


「まったく、見窄らしいですな!」


議員達はいつものように、市長に調子を合わせます。


「剣のルビーは取れているし、双眸も行方知れず。黄金も剥げ落ちて……。貧乏人と大して変わらんじゃないか」


他の議員達もこぞってやって来て、口々に同じことを言いました。


「おまけに、鳥の死骸が足もとにあるときたもんだ。ここはひとつ、『鳥は此処で死ぬべからず』と触書ふれがきでも出すことですな」


書記係がすかさず、市長の提言を書き留めます。


幸福な王子の像は、台座から引き下ろされることになりました。芸術学の教授は言います。


「幸福な王子は、美しさを失った。ゆえに、その有用性を失った」


*****


王子の像を鋳潰いつぶした後、市議会が招集され、地金じがねをどうするか決議することになりました。


「当然のことながら、台座の上には新しいものをしつらえる必要がある。それに相応しいのは、私の像でしょうな」


市長がこう言うと、議員達も口々に言いました。


「私こそがふさわしい」

「いやいや、私こそが」


こうして議会は紛糾し、口論は今でも続いているそうです。


*****


「こりゃあ、たまげた!」


鋳造所の親方が声を上げました。 


「割れた鉛の心臓が、炉内でしぶとく溶け残ってやがる。棄てるしかねえな」


そして、幸福な王子の心臓は、ごみの山に棄てられました。


小さなツバメの亡骸もまた、この場所に眠っていたのです。


*****


神は天使に使命をお与えになりました。


「この街で最も尊いものをふたつ、探してきなさい」


すると、天使は鉛の心臓と、鳥の亡骸を持ち帰りました。


「よくぞ見つけた。小さな鳥は、私の楽園で永久とこしえに歌を奏でるものとする。幸福な王子は、私の黄金の街で、永久に私を讃えるものとする」


こうして、幸福な王子と小さなツバメは天に召され、神の側近くへと旅立ちました。

最後の一文「こうして、幸福な王子と小さなツバメは天に召され、神の側近くへと旅立ちました」は、原作にない文章ですが、直前の神の言葉の意味を補う目的で追加しました。何卒ご了承下さい。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 嗚呼……すてき、ステキ、素敵。 まさに「何か」を伝えてくれる、教えてくれる物語ですね。 この作品が伝えたかったのは、自己犠牲の美しさでしょうか。 見返りを求めない優しさや努力は、…
2020/11/11 21:37 退会済み
管理
[良い点] 心に染みる素敵なお話でした。 すず音さんの巧みな翻訳技術によるところもあるのでしょうが、 とても読みやすかったです。 王子とツバメだけを見れば、 自己犠牲の上に成り立つ愛に満ちた物語です…
[良い点]  読みました。  3年ほど前になりますかね。  当時、昔話のパロディを作っていたことから、この「幸福な王子」も読みました。ですが話が長すぎて、あきらめざるをえなかったという記憶があります。…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ