金魚
餌として買ってきたつもりだった。当初は。
名を付けていない『彼女』の、餌として。
なぜか今は、その餌に餌を与えて生かしてしまっている。
(ヤキが回ったもんだな、俺も)
そう嘆息して、微苦笑した。説明の付けられない自分の行動は、正体不明の凶暴な焦燥感にあった。
今は痩せっぽっちの幼い家畜が、丸々太って見るからに食べ頃になるまでの我慢だと思って、曖昧模糊な衝動を意識の片隅に追いやり、日々を邁進している。
こいつが真っ赤な血を振り撒いて、内臓を撒き散らしながらガツガツと食われてしまえば、胸の内に巣食う暗い不安も消滅するに違いない。そう無理矢理決め付けて、冬来は騒ぎ始めた神経を強引に抑圧した。
「腹減ったぁー。プリン食べたい、プリン!」
「うっせーチビ。静かにしろ」
冬来がピシリと一喝すると、目に痛い紅い衣を纏った家畜は、ううう、と意味の無い音を漏らして沈黙した。しかし不満そうに頬を膨らませており、不機嫌オーラを周囲にばら撒くことだけは忘れていない。生意気なヤツだ。
「そんな事言っていいのかよー。早く俺太らせないと賞味期限きちまうだろーが。そんなことになったら勿体無いっしょ? 俺も不幸だし」
「家畜が人間に意見するなんざ、世も末だな」
新世紀がはじまったばかりなのに、冬来はそう思わずにはいられなかった。それにしてもよく回る口である。買ってきた当時の姿からは想像できないほどに。
少々うんざりしながら、冬来は買ってきたばかりのプリンを家畜に向かって放り投げた。
「それ食ったら、また寝ちまえ。起きてると煩くてかなわねぇ」
「ほーい」
早速包みを開けたヤツは、もぐもぐと忙しそうに口を動かしながら返事をする。出来の悪い弟でも出来た気分だった。
冬来は昔から生き物を沢山飼っている。公言はしていないものの、実は動物好きだったするのだ。馬にしろ犬にしろ猫にしろ、血統書付きの上等なものばかりで、それは魚に至っても例外ではなかった。
龍の化身としても名高い、アジアアロワナ。その中でも一際高貴な印象を受ける金龍と言う、一目見たら忘れられそうにない程の美しい姿が、一室の壁面を打ち抜いて改築された大型水槽の中に在る。最近、店で見かけて即買いしてしまった代物なので、まだ名は付けていない。しかし雌ということもあり、冬来はただ単に『彼女』と呼んでいた。
肉食魚である『彼女』のため、毎日大量の小魚が必要になる。アロワナ用に配合されたドライフードでも事足りるのだが、しかし冬来は生きた小魚が『彼女』の水槽に投入され、断末魔の悲鳴を発しながら必死の逃亡の末に活餌にされる様子を観察するのを好んだ。餌が見目美しい金魚だったりすると非の打ち所が無い程にゾクゾクする。友人に言わせると「とんだ悪趣味」らしいのだが、好きなものは仕方がない。
そうやって買い占められた金魚の中に、ディーは居た。
冬来宅に送り届けられた金魚は、一度『彼女』とは別の大きなプールに入れられる。そこで餌になるまでの死の順番を待つわけなのだが、ある日冬来が『彼女』の餌を餞別するために金魚用のプールを訪れたところ、一匹だけプカプカと浮いている赤い塊があった。
なぜ死骸が放置されているのかと腹立だしくなり、すぐにその金魚を捨てようとした。しかし、水から出して暫くすると、驚く事にその金魚はパチリと目を開けたのだった。
「なんだよー。せっかく気持ちよく昼寝してんのに、邪魔すんなよなぁ。寝る子は育つんだぜ? もし今の邪魔で俺の味が落ちたら、あんた責任とってくれんのかよ」
「……ああ?」
肌に纏っていたひらひらの紅い布は濡れそぼり、金糸に近い髪の毛もこごなって大量の雫を床に落としている。しかし家畜にしては随分と整った顔立ちだ。本来金魚は観賞魚であるから、姿かたちが美しいのは当然かも知れないが、こいつは他の金魚より群を抜いていると思った。しかし四肢は痩せ細っており、家畜としての食指はとても沸かない。
「死んでたんじゃねえのか、貴様」
「見れば解るでしょ、ちゃんと生きてるよー。ビョーキもないし、もうすぐ食べ頃、ピチピチの可愛い金魚ちゃんだっ」
えへん、と胸を張って、家畜は人懐こく笑った。
「その割には痩せすぎなんじゃねーの。喰われたいならもっと太れ」
「わかってるよそんなこと。俺は元々太れない体質なのっ。これでも頑張ってんだかんね!」
先刻までニコニコしていた表情を途端に崩し、今度はあからさまに不機嫌になっている。喜怒哀楽の激しいヤツだと思った。
仕方が無いのでその日から、冬来はそいつをプールから連れ出し、餌として相応しく熟すまで特別に面倒を見てやることにした。
家畜は、ペットショップにいた頃は係の人間から「ディー」と呼ばれていたそうなので、自分もディーと認識することにした。どうせ名を呼ぶ事など無く『彼女』の腹に直行だろうから、無駄な知識かも知れなかったけれど。
「ねね、冬来。もうそろそろ俺、食べ頃じゃない?」
ディーは、冬来と顔を合わせるたびに同じ質問をした。遂には一日に一回は決して欠かさない、恒例行事のようなものになっていた。
「さぁな」
「なんだよ、その気の無い返事はっ。俺にとっちゃ餌になるのは一世一代の晴れ舞台なんだぞ! すっごく誇らしい事なんだぞ! もっと真剣に俺を見てってばっ」
なんとなく気が乗らなかったので適当に流したら、ぎゃーぎゃーと煩く付き纏われたので、仕方なく冬来は紅い服の襟足を鷲掴み、人間の子供程度の大きさをしたディーを簡易プールから摘み出した。
「どう?」
「どうっつわれても、昨日と大して変わってねーよ」
「そっかなぁ。今日こそはと思ったんだけどなぁ……」
しょぼん、と肩を落として、ディーは唇を突き出した。
「でも、ま。いっか。頑張ってもっと美味しい餌になる。こうやって冬来とダベるのも面白いしさ。時期ももうちょっとだと思うし」
ふむふむ、と勝手に自己完結して落ち着いて、ディーは再度自らの決心を固めるように両の拳を握った。
「……」
確かに、初見よりは肌の色も唇の艶も健康的に色づいている。痩せすぎだった体型も標準に戻り、そろそろ『彼女』に与えても良い頃かもしれない。
だが、ディーと接する時間が増えれば増えるだけ、冬来の心には釈然としない蟠りみたいなものが大きくなっていった。少し前から感じていた、違和感のような焦燥である。
「……なぁ」
「なに」
大きなどんぐり眼を上目遣いにして、ディーは冬来を見上げた。
「お前は、餌になるってことがどんなことだか、解ってんのか?」
「?」
冬来の問いを、ディーは不思議そうに受信した。
「うん、解ってるよ。死ぬってことでしょ?」
「……だったら、なんで……?」
冬来はとても苦しそうな表情をしている。なぜ冬来がそんなに辛そうなのか解らなくて、ディーはぴょこんと首を傾げた。
「それが、どうかしたの? いつも言ってると思うけど、俺たち肉食魚用の餌として育てられた金魚は、餌になるのを常に夢見てるんだよ。だってそのために生まれてきたんだし。少しでも美味しい餌になれるように、ご飯もらって、運動して、お昼寝して。美味しく食べてもらえるようにって、いっつもそれだけを考えてるんだよ?」
「でも、食べられたら痛いだろうよ」
「そりゃあねー。食い千切られるわけだから。でも、痛みよりも幸せの方がおっきいよ。きっと、断然おっきい」
「そんなの……!」
納得いかない、とばかりに声を荒げた冬来に、ディーは冷静に対応した。その落ち着きっぷりに、冬来はますます神経を逆撫でられてしまう。攻撃的な感情が先行し、語尾が乱暴になるのを止められない。
「食べられたら……死んだら、もう二度とプリンも食べられねーし、俺とも喋れなくなるし、そこで全てが終わるんだぜ? そういう運命を不幸だとは思わねーのかよ」
「プリンは甘くて大好きだし、冬来も面白いから大好きだよ。でも、俺は餌としての本文をまっとうできない人生なんか、想像するのもヤだ。そんな不幸な出来事、ほかにはない」
ディーの声音は竹を割ったようにきっぱりしていた。
駄目だ。これでは永久に平行線だ。人間と家畜の価値観は、これほどまでに異なったものなのだろうか。
冬来自身は、誰かに食われる事を夢見るなど、言語道断で勘弁だった。正常な神経ではないと思う。自分が殺されて身体が食われる想像なんて、1秒でも考えたくない。おぞましさで虫唾が走る。
「……俺は、」
俺は、一体何がしたいのだろうか。
数日前から如実になってきた、無視できない感情。とても自己中心的な、自己顕示欲の塊。
ディーを、殺したくないと思ってしまった、自分。
(何故だ……?)
暇さえあれば寝ているけれど、声を掛けたり頬を擽ったりして起すと、眩しいばかりの満面の笑顔と、くるくると忙しなく動く瞳で、煩いほどに屈託なく自分に話し掛けてくれるディー。
ディー本人もこの生活に満足しているようだし、ずっとこのままでいられればいいと思っていた。
だけど、やっぱりディーは家畜で。
自分との生活よりも、『彼女』に食われることを強く望んでいて。
「……だったら、……」
早く食われちまえばいいんだお前なんか、という台詞は、最後まで発される事は無かった。
「……早く、食われるようになるといいな」
「おー!」
嬉しそうに返答するディーを正面から見ていられなくなって、冬来はふいと視線をずらした。
ぼんやりと、脳裏の片隅に思惟が浮かぶ。
(他のヤツが食う位なら、俺が……)
その決意は、まだ俄然柔らかくて、定まらないものだったけれど。
そういう選択肢が芽生えたことに、冬来は思いのほか満足して、そっと部屋から退出した。