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challenging-現在進行形な僕らは 第1章 2011年8月 海と出会いと悲しみと 第8話

第8話


 僕にはお父さんはいない。いないというか知らない。

 うまく言えないけど、僕には喪失感みたいなのが小さい頃から身近にあったと思う。


 週末とか夏休みとか、友達にはお父さんとの思い出がたくさんあるんだろうけど、僕にはそういう思い出がなかった。お父さんもいないし、お父さんとの想いでもない。普通にあると思われているものがないというのは寂しかったけど、その寂しさにはなじんでいた。なじんでいたつもりだった。


 でも、香川さんの出来事は比べ物にならない。喪失感とか言葉であらわせるものじゃない。なじめるものじゃない。自分自身の小さい頃を思い出しながら、また胸が締め付けられる。


 僕には生まれた時からお父さんはいなかった。母さんはいわゆる「未婚の母」だった。自分の父親のことは物心ついた頃から母さんにもじいちゃんばあちゃんにも聞いたことがない。聞いたことはあったんだろうけど、聞いちゃダメだと記憶にないころから幼心に刻みこまれたんだろな。僕には母さんやじいちゃんばあちゃんがいる。それで十分だ。ないものをねだってもしょうがないとうことを僕は子供の頃に悟っていたんだ。


 母さんは病院勤務の薬剤師だ。今ではかなり責任のある立場らしい。仕事も頑張っているし、忙しいのに僕のことも気にかけてくれているのが分かる。僕は母さんに悲しい思いをさせたくなかった。僕は小さい頃から「おりこうさんね」とよく言われた。中学校になってからも家でも学校でも良い子だったと思う。

 よく反抗期とかにならなかったなと我ながら思うけど、それは剣道でエネルギーを発散してバランスを取っていたのもあったと思う。実際、同級生や上級生でさえコテンパンにやっつけていた。竹刀を握ると人が変わると言われていた。


 結局のところ、片親だという視線に子供ながら反抗していた気がする。反抗する相手って、普通は学校や親、特に父親だったりするのだろうけど。僕の場合は、「片親だからかわいそう」とか「片親だから非行に走るんじゃない?」とかそういう世間に反抗していた気がする。そして反抗するエネルギーは剣道で発散していたんだ。


 その日は、自転車通勤中だけじゃなく、学校でも全く集中できなかった。今日はほんとに物思いにと割られているな。全く駄目だ。集中できない。こんな日もあるさと開き直って夕練コースを走って帰るのをあきらめて、行きつけのバイクショップに顔を出した。集中力が切れているときに走ってもきっと身につかない。そう言い訳しておく。


 今日も何を買う訳でもない。僕はロードバイクやヘルメット・シューズ・空気入れやボトルに至るまで、ほとんどおじさん、つまりお母さんの妹の旦那さんからもらったので、ショップの売り上げにはあまり貢献していない。普段買うのはタイヤのチューブとかチェーンとかメンテナンス用品とかの消耗品くらい。ちょっと値が張るのはタイヤとかウェアくらいだ。


 店内を物色しながら、僕は自転車に乗り始めた頃を思い出していた。また物思いが始まると自分で自覚しながら思い出していた。

 母の妹の旦那さん、つまり僕にとってのおじさんの勝利さんは、僕の恩人だ。中学生の夏に剣道の全中大会の前にアキレスの断裂で呆然として入院していたとき、こういう人もいるよと、ガンから復帰してツールドフランスを7連覇したランス・アームストロングの自伝をくれた。それは僕の入院生活の光になった。そのあと、勝利さんはランスが7連覇したツールドフランスのDVDを貸してくれた。


 その映像を見た僕は衝撃を受けた。僕はガンという病気の重さの意味を知っている訳じゃない。だけど、ガンから復帰してツールドフランスと言う過酷なレースを7連覇したと言うだけでも、とてつもなくすごいことだと言うことは分かった。ツールドフランスは出場することさえ困難で、今まで日本人では出場したのは4~5人くらいしかいない。

 7回連続で出場するのも大変だ。7回連続で完走することは更に困難だ。それを7連覇である。驚異的だ。


 ランスの驚異的な実績にはドーピングしてるんじゃないかと批判するメディアもある。ずっとドーピング疑惑がある。あの強さは尋常じゃないと思わせる強さなのは確かだった。

 それでも自伝や映像の向こう側のランスは、僕にとってただ圧倒的だった。ランスは僕のヒーローになった。たとえドーピングをしたとしていても、僕の中ではヒーローだった。


 片親で母親に育てられたこと。

 ロードバイクに乗り始めたのは、十代後半になってからだということ。


 それらが僕に可能性を感じさせてくれた。そして、抗がん剤の闘病の過酷さを読んで、アキレス腱の断裂とそのリハビリなんて些細なことだと自分で開き直れた。


 ツールドフランスのランスのDVDだけでなく、その他のロードレースのDVDにも夢中になっていた僕に、勝利さんは退院後のリハビリ用にと、自転車、つまりロードバイクをくれた。勝利さんのお下がりだけど、そのロードバイクは僕の宝物になったんだ。それ以来、僕はロードバイクに夢中になった。勝利さんに感謝だ。


 そうそう、勝利さんの奥さん、つまり母の妹の恵子さんはかわいい人だ。僕の母親も歳の割に随分きれいだけど思うけど、母のきれいさとはちょっと違うな。黙っていると、昔の母のきれいさは厳しさを感じさせる気がした。話し出すと途端に勢いの良いおばさんになるけどさ。たぶん、未婚で子供を育てていることに対しての防御だったんだろうと今となれば思える。子供の頃は難しそうに考え事をしていそうな母親の後姿に、幼心に声をかけるのをためらったことがある。母は今は随分丸くなった。


 恵子さんは違う。今でもかわいいねとかと言われたら、にっこりと笑って、「ありがとう」と言える余裕がある。僕は子供の頃から恵子さんに可愛がってもらっていて、僕としては幼心に素敵なお姉さんに可愛がってもらえるのは随分嬉しかった。


 恵子さんは都内の大学を出た後、最初、「外資系のOL」というのをやっていたらしい。だけど、突然、その会社が日本から撤退することになり解雇されたそうだ。ほんとに突然で、普通に出勤したら、ビルに張り紙があってその事実を初めて知ったらしい。結局、そのまま会社のビルにさえ入れなかったそうだ。僕は、会社ってそういうものなのって聞いたら、「普通は違うかもしれないけど、私の場合はそうだったのよ」とのことだ。大人の社会は厳しいね。


 その後、都内の1人暮らしから戻ってきて、会社勤めはもう嫌だとか言って、学生時代に取ったらしい行政書士の資格で行政書士事務所を開いたそうだ。そう聞いた話だけで、実は僕は行政書士が何をする仕事なのかはよく知らない。

 実際には事務所を開いたのは良いけど、なかなか顧客がつかなくて事務所の家賃の支払いにも困って、貯金が底を尽きそうになったらしい。やむを得ず、顧客相手の営業ではなくて他の資格の事務所から顧客を紹介してもらおうとして飛び込み営業した事務所が勝利さんの税理士事務所だったらしい。


 勝利さんの事務所では行政書士事務所としても看板をだしていた。そのときちょうど勝利さんが手が回らなかった顧客の許認可の案件があって紹介してもったらしい。その顧客が恵子さんの仕事ぶりを褒めたらしく、勝利さんは許認可関係の仕事は恵子さんに回し、税理士業務に専念するようになった。

そのうち、「どうせなら事務所も人生も一緒の方が良いかな」とか言って、勝利さんがプロポーズしたらしい。恵子さんは、「なんであんな事務所に飛び込んじゃったのかしら」とずっと言っている。僕からみると、とてもお似合いの夫婦だと思う。2人は楽しそうで仲が良くて、ケンカしてるときもあるけど、僕の理想のカップルだ。うらやましいなあと思う。


 入院していた中学3年生の夏休みの頃は、ちょうど勝利さんの身長と僕の身長が同じくらいだったので、バイクだけじゃなくて、ジャージもレーパンも最初はもらっていた。自分で買ってたのはシューズとグローブくらいだ。その後、僕のほうが身長が伸びたけど、体重は大して増えなかったのでもらったウェア類はそのまま使えている。バイクは、サドルを上げてハンドルを遠めに調節して今でも使っている。フレームはその分ちょっと小さめになっちゃったけど、そもそもロードバイク自体が買うとなると高いんだよね。高校生に買える値段じゃない。


 勝利さんは、「アルミフレームで10年近く前のモデルだけど、最初はこれで慣らしなよ。他も使い古しだけど」と言って、バイクやらヘルメットやら空気入れから基本的なメンテナンス用の工具なんかも1式揃えて僕にくれた。ほんとありがたい。 


 そのロードバイクのスペックはこんな感じ。ビアンキというブランドの明るいグリーンのアルミフレームに、カーボンフォークを組み合わせたフレームだ。その当時のグレードとしてはなかなかのモノだったらしい。今はカーボン製のフレームが全盛でちょっと古いらしいけど。


 モデルチェンジが頻繁なロードバイク界では、付いているパーツは今の最新型からは3世代も4世代も前のパーツだ。それでも勝利さんがしっかりとメンテしてくれていたので、動作には全く問題ない。今は11段変速が主流で、僕のは9段変速だけど、それで僕には十分だ。 


 ロードバイクを譲ってもらった最初の頃、基本的なことを教えてもらいながら、よく一緒に走った。最初は、ロードバイクのペダルとシューズが、金具ビンディングで固定されると知って驚いた。止まる時にはペダルを外さないと転ぶ。流線型のヘルメットは大げさだと思ったし、ピチピチの派手なジャージやレーパンはなんだか気恥ずかしかった。今では、それらがないと自転車に乗るのに不安で仕方ない。 


 僕は、リハビリが明けてからロードバイクに乗り始めてすぐに、宇都宮森林公園で毎年開催されているジャパンカップの前座の前座のホビーレーサー対象のチャレンジレースにエントリーした。退院してリハビリがてらに乗り始めてから1ヶ月しか経ってなくて、エントリー自体無謀だったと思うけど、とにかく走ってみたかった。


 結果は制限時間ギリギリでほとんどビリでゴール。結果は散々だったけど走れることが嬉しかった。今年でロードバイクに乗り始めて3年目。チャレンジレースも3回目のエントリーだ。


 そして初参加のチャレンジレースの翌日のジャパンカップ本番。初めて古賀志林道で観た本物のロードレースの衝撃が忘れられない。その衝撃が自分の自転車に対するモチベーションに更に火をつけた。

 勝利さんが僕にロードバイクを教えてくれたのは事実だけど、ジャパンカップを観なかったら、ここまで自転車が続いたかどうかは分からない。乗り始めた頃、僕が足を着いてしまいそうなヨレヨレのスピードで登っていたこの林道を、エンジンがついているんじゃないかと思うスピードでロードバイクの集団が登っていった。


 最終周回の林道でのアタックは鳥肌が立った。最終周回、つまり100km以上、登って下って走ってきて、最後の登りの加速が一番最強だった。こんな世界があるのかと驚愕した。自分で必死に走っていても楽しかったけど、こんな風にも人は走れるのかと驚いた。レースを走ったりジャパンカップを見たり、ロードレースの乗り方や面白さを勝利さんに教えてもらったりしながら、僕は強く速くなりたいと思った。


 野球やサッカー、剣道もそうだし、体操競技とかもそうだと思うけど、十代の半ばから競技を始めて、その競技のレベルでトップに追いつくのはかなり大変だと思う。

 しかし、どうやらロードレースはそうじゃないらしい。ランス・アームストロングのように、十代後半から始めても世界のトップレベルになれる可能性がある競技だと言うのが、僕の気持ちを強くした。それ以降、リハビリというレベルを超えて朝練を始めた。5時30分から平日も休日も朝練で走るうちにオジサン達と仲良くなり、輪太郎とも知り合った。


 僕は、店内で何気なくロードバイクを眺めながら、自転車を乗り始めた頃を思い出したり、勝利さんと恵子さんはお似合いだよなあと思って自分と香川さんもそうなれないかなあと思ったりしている自分に気がついて、1人で照れていた。やっぱり僕は1人で考え事することが多いなあ。そんな事を考えながら店内を物色していると、1枚のチラシに目が言った。


「井頭公園トライアスロン参加者募集中」

「パートごとの参加もOK! スイム・バイク・ラン、1人で全部できなくても友人同士の参加でパートごとに参加OK。チームでみんなで楽しめる!」

これは、面白そうだ。僕はそのチラシをもらい、店長に帰りのあいさつもそこそこに家に帰ってから考えた。これにエントリーするのって、どうだろう。今は8月上旬。このトライアスロンは9月の下旬の連休に真岡市の井頭公園にある1万人プールを利用して開催されるらしい。これは、面白そうだ。


 輪太郎と福井さんと、そして香川さんで出られたら、絶対に楽しいに間違いない。


 第9話につづく


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