第4章 2011年10月 チャレンジレース 第77話
第77話【宮本 健】
「びっくりした」
律ちゃんは素直に言う。
「でもね、あれだけ可愛いとか美人だねって褒められると悪い気はしないから不思議ね。下心ある若い男の子の褒め言葉はなんだか警戒しちゃうけど」
晴ちゃんはまんざらでもない様子だ。
「いやあ、あのオジさんたち、下心がないなんて思ったら大間違いだって。下心がないんじゃなくて羞恥心がないだけだから。照れとかどこかに忘れてきてるだけだから」
僕は冷静に解説しておく。
「でも、そういう方が楽なのよね、きっと。同い年の男の子だと変に駆け引きとか、あったりするしね。世間におじさん好きな女の子がいるのが分かる気がする」
「おいおい、俺達を前にしてそれはないだろう」
輪太郎もちょっと嫉妬したのか。珍しいな。まあ、羞恥心がないというか正直な点では輪太郎もオジサン達と一緒だ。晴ちゃんが輪太郎に惚れるのも分かる気がする。
「スタートまで1時間くらいか」
輪太郎がサイコンの時計表示をみて言う。
「そろそろ準備するか」
いよいよだ。
「じゃあ、私たちは山頂に向かうね。ビックマウスの実力を見せてよね」
「きっと、俺に惚れ直すぜ」
相変わらずの2人だ。
「山頂で待ってるね」
律ちゃんの「山頂で待ってるね」は僕の気持ちを震わせた。
僕らは最後のバイクのチェックをする。ウェットな路面に備えて、空気圧をちょっと落とす。それから僕はオレンジジュースを飲み、輪太郎はゼリー飲料を飲む。ゴールラインに並んでいるのはまだ数えるほどだ。
例年よりスタート位置への集合が遅い。まだ霧雨が降っているので、他の選手は体が冷えるのを嫌っているに違いない。並んでいるあいだに冷えてしまうかもしれないけど、僕らは体が冷える心配よりも最前列に並んでダッシュする方を選ぶ。そしてスタートからダッシュして古賀志の登りを目指す。
最初にスタートする1組のスタート招集場所の後方に、2組の招集場所がある。僕らはウインドブレーカーを着たまま2組の招集場所に並ぶ。ウインドブレーカーはスタート前に曽根さんに預かってもらえる。こういうとき、応援に来てくれているおじさんたちに感謝だ。並んでいると五十嵐さんと田代さんがバイクに乗って1組の招集場所にやってきた。
「大丈夫なんですか」
五十嵐さんの頬と上唇にはでかいガーゼが貼ってある。ヒジとヒザにもガーゼがあててある。
「大丈夫もなにも。まだ抜糸してねえし、前歯も折れたまんまよ」
笑うと確かに見事に前歯がない。
「大丈夫なんですか」
唖然としてまた繰り返して聞いてしまった。だって、ウェアはいつものジャージとレーパンじゃなくて、その辺にロードバイクに乗って買い物に行きますみたいな短パンとTシャツだしバイクもいつもの赤いクロモリじゃなくて、自転車通勤に使っていそうなハブダイナモのライトの付いたロードレーサーだった。
「大丈夫なもんか。レースに出るつもりは全くなくてよ、今朝はのんびり寝てたらさ、嫁がさ、「参加費もったいないでしょ、参加賞のリンゴでももらってきなさいよ」って言うから。そんじゃリンゴでももらってくるかと思って受付にきたら田代さんがいてさ、そのまま拉致されちゃって。結局、ついでにスタートに並んじゃったよ」
僕はそれでスタートラインに並んじゃう五十嵐さんにびっくりした。
「ターミネーターな五十嵐さんが出ないなんて嘘でしょうって、拉致しちゃった」
田代さんが笑いながら言う。
「そういう僕もさ、もう全然走れてないんだわ。引越しとか引き継ぎの準備で。昨日も帰りは遅かったし今日もレースが終わったら会社行くけど、それでも午前中だけは時間がなとか空いてたから」
すごいな。ふたりともすごい。僕だったらスタートラインにはとても並べないだろう。走れる僕が走らなくてどうするんだ。2人に元気をもらった。
そして、僕と輪太郎はこの古賀志林道を登った回数で言えば、上位にランクイン間違いなしだ。誰よりもコースを熟知している自信がある。どこの登りでシフトダウンし、どこのコーナーならどれだけ突っ込めるか分かる。
今日みたいに路面が濡れているコンディションでも練習しているからタイヤの限界が分かる。
僕の限界はコルナゴC50になって更に上がっている。大きな自信だ。不安はない。緊張してるけど、この緊張感がたまらない。今日は特別だ。スペシャルだ。
第78話に続く




