challenging-現在進行形な僕らは 第2章 2011年9月 マロニエトライアスロン 第20話
第20話
午前7時15分、選手の招集時刻になった。スイムパートの香川さんがスタート位置に向かう。何を声をかければいけないと思ったけど、まったく気のきいたセリフが出てこない。
「楽しんできてね」
いまひとつ間を抜けたことを言ってしまった。頑張ってねとは軽々しく言えなかった。たぶん、それは輪太郎も一緒だったと思う。
「しっかりつなぐね。輪太郎君の幸せのためにもね」
香川さんがさらりと言った。それを聞いた輪太郎は一気にテンション上がってしまって
「俺、もう全開で行くから。安心して。俺はもうブッチギリ間違いなし。まかしておいて」
輪太郎が珍しく真面目に返事をする。
流れるプールの何箇所かに分かれてスイムがスタートするらしい。香川さんはトランジットコースへの入り口が一番近い場所がスタート位置だ。対角線だったらそれだけで数十mは距離があるから大変だったろうからラッキーかな?
そう思ったら、女子とジュニアがその位置がスタート位置だったらしい。香川さんを見送ってスタートを待っている間、福井さんが心配そうに言った。
「私のタスキ、プレッシャーにならないかな?」
今回のリレークラスのトライアスロンのタイムの計測は、足首にまくバンドにセンサーがついていて、それをタスキ替わりに次の走者につなぐ。
それ以外に、僕らのチームは福井さんからのタスキをつなぐことにしていた。規約で持ち込みのタスキの類を肩にかけるのは禁止されていたから、走ってる最中はポケットやウェアの内側にしまっておいて、リレーするときに丸めて渡すだけだし、その分数秒ロスもあるかもしれない。でも、タスキってなんだかスゴイなと思える。福井さんの思い入れを聞いてそう思った。
福井さんのタスキはまだ完走していなかった。
福井さんは中学生の頃から注目されていた中距離の陸上の選手だった。女子駅伝の名門校に入学した福井さんは、高校1年生でインターハイで優勝。そのタイムはその年の日本女子の1500mのトップだった。
翌年には高校2年生で全日本で優勝し、スーパー女子高生として次のオリンピック候補と言われるようになっていたらしい。かすかにそんなニュースを聞いた記憶もある。オリンピック候補の美少女ス-パー女子高生ランナーって。
しかし、その後の福井さんは故障から伸び悩んだ。全日本の優勝後、1区のエース区間に起用された全国高校女子駅伝で、福井さんは無念のリタイヤをしたらしい。そのときタスキはつながらなかった。優勝候補に挙げられた高校でそのエース区間という大役、しかも当然ながら周囲に結果も期待されていた。結果は無念のリタイヤ。どれだけ辛かったのかと思う。
全日本の優勝後、痛みが出てきた脛の具合が良くなくて出場も微妙な状況だったのに、それまでの実績が不出走という選択肢を選ばせなかったらしい。その状況で走りだせば影響があるのは本人も分かっていたけど、走りだせば弱音は吐けない。駅伝ならなおさらだろう。
そのとき福井さんは中盤の競り合いで他の選手のスパートについていこうとして、脛をレース中に疲労骨折してしまった。それでも走り続けようと激痛に耐えながら走り出そうとして倒れてしまって転倒して頭を打って気を失った福井さんは病院に搬送された。その時タスキは搬送の際のドタバタでなぜか回収されないままだった。
リタイヤ後の周囲の状況は福井さんにはかなりつらかったみたい。特に先輩部員にはブレーキどころかタスキを繋げなかったことを非難された。その後、その借りをなんとか結果をだして返そうと思ったのに、故障がそれを許さなかった。
脛の痛みや土踏まずの故障を頻発し、思うように走れなくなっていた。福井さんは実績もあったし容姿も目立っていたからマスコミにも注目もされていた。それが逆に期待に応えられなかったことで、嫉妬もあってか部内での立場は孤立しがちになったらしい。
「結局、リタイアした駅伝の後、私には陸上部に戻る場所が無くなっていたのよ」
女子の部活ではたぶんよくあることなのよと福井さんは言うけど、つらかったんだろうな。その後、福井さんは退部しても意地でも高校を辞めず、高校で体育の教師になることを目標にして受験勉強に集中したらしい。走ることが好きなのに走れる環境にない。せめて楽しく走ることを教えたいと思ったんだろうな。
福井さんにとって、このリレーのトライアスロンに参加できるのは僕たちが思っているよりも思い入れがあるのかもしれない。
「俺につながったら、絶対にブッチギリで一番でタスキを渡すから」
相変わらず輪太郎は自信満々。福井さんが言う。
「そうね、期待しないで待ってるわ。ムサシ君はゴールで待っていて。3人分の気持ちをムサシ君に最後につなぐから。そしたら私の駅伝は完走したことでいいかしら」
僕は最後にゴールで待っていよう。それまで精いっぱい応援しよう。応援をこんなに頑張ろうと思ったのは初めてだ。応援する気持ちがこんなにテンションを上げるとは思わなかった。頑張れ。香川さん。福井さん。まあ輪太郎は意地でも頑張るだろうな。リレー部門で優勝したら2人は晴れて付き合うのかな? 2人の幸せになるように応援しよう。そして優勝したら香川さんに僕も告白するんだ。
流れるプールはウェットスーツを着た選手であふれていた。
「寒くないかな?」
輪太郎も心配する。確かに9月下旬の朝7時じゃ寒いよね。僕らは何度も香川さんに手を振って頑張れ頑張れと言っている。今なら頑張れって言っても良いシチュエーションだろう。香川さんは笑顔で手を振り返してくれる。きっと大丈夫だ。
いよいよスタートだ。カウントダウンののち、号砲と言うにはちょっと安っぽいピストルの合図で一斉にスタートする。ちょっと拍子抜け。そのあと応援するチームの方からあちこちでファンファーレみたいな音が鳴り響き、それなりに盛り上がった。その間がなんともユーモラスだった。
スタート後のプールの様子を見ていて驚いた。スタート後は、選手たちがサカナの群れのようにワラワラと密集して泳いでいくのだ。ワラワラと。その中で僕らのイルカちゃんはかなり良いスタートを切っている。女子とジュニアの列からスタートしたので、すでに周囲の選手をブッチぎっている。
その実力からすれば前の集団に追いつくのは時間の問題だ。かなりリードしてる。心配なのは男子クラスの集団に追いついちゃった後、この密集状態で男子の選手に力負けしないかどうか。これだけ密集していてコーナーもあるとなると、さぞかし泳ぎにくいに違いない。大丈夫かな?
第21話につづく




