challenging-現在進行形な僕らは 第2章 2011年9月 マロニエトライアスロン 第17話
第17話
お昼が終わって一休みしていた僕らの視線の先には、飛び込み台があった。割と本格的で、中学生や高校生が面白半分に飛んだりしている。板の反発力のタイミングに合わせてうまく飛び出せる子もいれば、板にはじかれて落っこちたり、着水のタイミングでうまく着水できずに背中から落っこちて痛がっている子もいた。
「ムサシ、あれ行こうぜ」
サンドイッチやサラダをお腹いっぱい食べて満足して、ちょっと休んだ後に、こういうのにはめっぽう興味津々の輪太郎が言う。いつもは慎重な僕も、つい良いカッコ見せたいなと下心があって、「よし、どっちがカッコ良く飛べるか競争」と言ってみた。
「珍しいな、ムサシ。彼女の前ではやる気だな」
だから、まだ彼女じゃないって。彼女と言えれば良いけど。
「俺とムサシとどっちがうまく飛べるか、採点よろしく。こういうのって、俺が失敗してオチになるパターンが多いけどさ、公平に採点してよ。真剣勝負だから。そうだな。ソフトクリームかけよう。4人分」
ソフトクリーム4人分か。良いじゃないの。素人同士なら運みたいなもんだ。
ジャンケンで飛ぶ順番を決めた。最初は輪太郎になった。輪太郎は、最初は小さく、何回かバランスをとってだんだん跳躍が高くなって、おお、やるかもと思ったら。高く飛び出したものは良いものの空中でバランスを崩して両手両足をバタバタさせて、「ウワァー」だか「オワァー」だか奇声を発したまま、間抜けな格好で尻から着水していった。それを見た僕らは腹を抱えて笑ってしまった。
「ムサシ、今度はお前だぞ。俺が笑ってやるからな」
水面から顔を出した輪太郎が言った。福井さんと香川さんの2人はまだ笑っている。次は僕だ。緊張しながら板に乗る。僕、初めてなんだけど。これって、板の反発力のタイミングとひざの使い方のタイミングが同調しないとうまく跳べない訳よね。
それは分かる。板の反発力を殺さないように何回か小さく飛んでみるけど、めちゃくちゃ怖い。よく輪太郎はあれだけ高く飛べたな。もうちょっと高く跳ぼうかと思って焦った。タイミングが狂って、「あわわあわわ」とほとんどに飛べずに斜めに弾かれて落っこちた。プールから出ると、3人は大笑い。
「なんだ、あれ、跳んでもいないだろ。いちおう飛んだだけでも俺の勝ちだな。ソフトクリームごちそうさま」
輪太郎が得意そうに言う。あのね、どっちもどっちだろ。まあ確かに高く跳んだのは輪太郎のほうだけど。仕方がない。ソフトクリームを買いに行こうと思った、そのときだった。
香川さんが飛び込み台の方に向かって歩いて行った。あれ? 跳ぶのかな?
跳び板の上でいったん静止した香川さんを見ていた。
香川さんが深呼吸したように見えた。そこから時間が止まった気がした。
その姿勢は飛び込みの上でとても美しく映えて、静止している状態でも今までの誰とも違って見えた。これから何かが始まるという緊張感と期待感が、飛び込み台にいきなり生まれる。香川さんが深呼吸ののち小さく跳躍を始めると、その緊張感と期待感は飛び込み台のあるプールの周囲にいる全員に伝わった。
「これは違う」だれもがその数回の跳躍を見惚れていた。僕だけでなくプール全体の音もなくなり時間が止まったようだ。その中心には香川さんだけがいる。
跳躍は高くなり、滞空時間が長くなるにつれて緊張を倍増させる。今までの誰とも比較にならない長く高い最後の跳躍で空中に飛び出した香川さんは、大きく手を広げ、まるで空を飛んでいるように見えた。
ほんの数秒の滞空時間が永遠に思えた。止まって見えた。放物線の頂点で香川さんはすっと膝を抱えて1回転し、また姿勢を伸ばして指先からつま先までまっすぐに伸身の状態でのびやかに着水した。着水は水しぶきがほとんど立たず、そのスムーズさに周囲は息を飲んだ。
ほんとにみんなが息を飲んだのだ。
僕は言葉を失った。輪太郎も福井さんも、だ。着水した香川さんがプールサイドに上がると、プールサイドにいた観客?から自然と拍手が湧いた。すごい。僕も夢中で拍手をしていた。誰かが口笛を鳴らしていた。香川さんが髪の水を切りながら僕らのテーブルに戻ってきた。眩しかった。
「ねえ、すごいわよ、律ちゃんて、いったい何者?」
僕らの感想を端的に福井さんが言ってくれた。
「競泳やってたんじゃなかったの? 跳び込みもやってたの?」
香川さんが答えた。
「飛び込みは、競技ではやってなかったの。ただ、夏に練習してたプールには飛び込み台があったのね。 練習の合間にみんなで跳んでいたの。久しぶりに跳んだから緊張しちゃった」
照れたように笑う香川さんが最高に眩しかった。
その日、もう1回、香川さんは跳んだ。その伸びやかな姿にまたもや見惚れた。僕が一番見惚れていたのは間違いない。あの子は僕の彼女だって言いたかったけど、まだ言えないのがもどかしかった。
もちろん、飛び込みの大会とかって、上位の選手はもっともっとアクロバティックですごい技が連発されるのだろう。でも、その大会を見ても、たぶん今日ほどの衝撃はないと思う。普通のレジャー用プールの飛び込み台で、かわいい普通の女の子に見えた律ちゃんが、跳び板からしなやかに跳躍する姿の残像が何度もまぶたに浮かぶ。
そのあと、4人でソフトクリームを食べながら、ちょっとぬるくなったお茶を飲み、しばらくのんびりと時間を過ごした。その間、僕らは自転車乗りの日焼け具合のアンバランスさやすね毛の手入れについて、海の日に続いて念入りに福井さんに説明をした。すね毛を剃ってるのはナルシストな訳じゃないのを説明しておいた。日焼けの後が腕とひざ下だけ黒くて、太ももと二腕からは真っ白な理由も説明した。
何をしていた訳でもなく、ただ他愛もないことを話しているだけでも楽しくて、僕以外の3人もこの雰囲気を楽しんでいる。入れ込みが少ないとはいえ、夏休みのプールサイドには、笑い声や歓声が響いていて、僕らは絵に描いたような恋愛の真っ只中にいた。
第18話に続く