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「……はぁ」
ウィッグの髪を整えて、唇に色つきのリップクリームを塗りなおした少女は、鏡に映る自分の姿を確認すると大きなため息をついた。
昼食を終えて店を出る前にはいった化粧室で唯人は、先ほど親友と交わした会話を反芻して自己嫌悪する。
ちなみに女性用トイレに入ることは最初の数回で慣れてしまった。
それは美鈴の「変に恥ずかしがったり、おどおどしたりするほうが変に見られて見破られるかもしれないし、それに中で裸になるわけじゃないんだからさ、気にしないほうがいいよ」という教えに、妙に納得したからである。
さて、途中で美鈴に遮られた明斗とのやりとりは結局、何を伝えたかったのか自分でもわからないままに終わってしまった。
あれではまるで、明斗と健の二人のことを、ただ羨ましがっているだけのように聞こえただろう。
いや、たしかに羨ましいことは確かである。
自分には誰かを見下ろせるような身長も、逞しい肉体もないのだから。
ただ、少しひがみっぽくなってしまったと反省するのだった。
「ふぅ……」
俯くとまたため息が零れた。
「猫背になってるわよ」
「……美鈴さん!」
不意に声をかけられて我に返ると、いつの間にかすぐ横に美鈴が立っていた。
「ほら、ちゃんと胸を張って!……うん、髪は大丈夫だね。ちょっとお化粧直そうか」
美鈴は唯人の背後に回って両肩をつかみ胸を張らせると、鏡越しに表情を窺った。
「ん……と、ちょっと顔色良くないけど大丈夫?」
「あ、え……と、大丈夫です」
化粧のせいでわからないだろうと思っていたが、美鈴は目ざとく唯人の変調を見抜く。
しかしまだ昼が終わったばかりで、この後も見て回りたいアトラクションはある。
幼い頃に一、二回来て以来の入園となるこのファンタジーランドを唯人は、女装のことはともかくとして密かに楽しみにしていた。
だから午前中もいくつか回ることが出来たが、まだ終わりにしたくないという気持ちもあった。
たしかに昼前くらいから下腹部あたりに鈍痛があったり、少し頭痛がしたりと絶好調とは言えないが。
「たぶんこの格好で緊張してるのと、暑いからだと……思うんで」
「そう……ならいいけど。辛くなったらちゃんと言うのよ?」
唯人の化粧を整えながら美鈴は、鏡の中の少女の目をまっすぐに見る。
「は、はい」
唯人はたじろぎながらも、何とか頷いた。
「さて……と、こんなもんかな?
それにしてもこの前より慣れてきたからか、表情が自然になって可愛さレベルアップって感じだね」
「え?」
「健くんもお昼食べながら、ずーっとユイちゃんのこと見てたし」
二人ずつの席は、離れてはいたが目の届く距離にあった。
「ええ?」
「もっと早く知り合えていればなぁ……なんてため息混じりに言ってたし」
「えええ?」
美鈴の言葉に、かあっと顔が熱くなる。
「あれ、赤くなってる?ふふっ、可愛い格好したら気持ちまで女の子になっちゃった?」
ふと見れば、肩口にある美鈴の顔はいたずらっぽい笑みを浮かべていた。
「ちょっ……変なこと言わないでくださいよぉ」
からかわれたと気づいて余計に恥ずかしくなるが、美鈴は本当のことだと唯人の頬を指先でつついた。
それから化粧道具をしまい、自分も髪などを整えると、脱力したままの少女に笑顔で言った。
「さて午後は恋人らしく、もっとイチャラブしてもらわないとね」
・・・・・・・・・・
「ここが『真実の館』か……やっぱり混んでるな」
「入場制限があるから混雑しやすいってパンフレットに書いてあるよ」
「なるほど」
「ホントに入るの……?」
四人はパーク内にある大きな屋敷風のアトラクションにやって来ていた。
館内は迷路になっており、行き着いた先にある出口に掲げられたメッセージで、今後の運命がわかるという趣旨のウォークスルー型アトラクションであり、その内容はいわゆるお化け屋敷だった。
特徴としては二人一組の時間差入場式で、おまけに男女ペアでなければ入れないという、デートスポットに偏重したものであるということが大きい。もちろんパーク内での人気は高かった。
ちなみにここへ来ることを提案したのは美鈴であり、彼女曰く「この真実の館には隠し出口の『鏡の間』っていう部屋があって、そこにたどり着いた恋人は鏡の前でキスをすると結ばれるって伝説があるのよ」とのことらしい。
明斗は都市伝説だろうと笑ったが、とりあえず行くことは行こうということになったのである。
館内へはここでも明斗と唯人、美鈴と健の組み合わせで入ることになり、美鈴と健のペアが先に扉をくぐった。
「な、なぁ……」
ドラキュラの格好をした係員が閉じた扉を前に、唯人はおそるおそる声をかけた。
「ん?」
傍らに立つ少女に視線を落とすと、こわばった顔のまま上目遣いにこちらを窺う瞳があった。
「ホントに……入るの?」
今にも震えだしてその場にへたり込みそうな様子に明斗は、親友がこの手のアトラクションを非常に苦手としていることを思い出した。
「ああ、大丈夫か?」
「う……うん」
入りたくないと顔に書いてあったが、先に入った姉からはゴールで待つと指令を受けているため、これは通らなければならない扉だった。
係員は、おそらく演技であろう表情のない声で、二人に入場を促した。
見上げてくる大きな瞳が揺れた気がして、明斗はそっと少女の手を握った。
息を呑んで、身じろぎする気配がしてもう一度表情を覗くと、驚いたように見開いた双眸と視線が交差する。
一瞬だけ浮かんだ逡巡はしかし、握り返してきた指の力とともに消えていた。
ギギギッと大仰な音を立てて開かれた扉に向かって二人は寄り添うように歩き出す。
その姿は傍から見れば初々しい高校生カップルそのもので、そろそろと恋人の手を引く彼氏といった構図も実に微笑ましい。
だがその当事者二人はそれぞれにわずかな葛藤を抱いていることを、列に並んで見守る人々が知るはずはなかった。
真実の館の中は入り組んだ造りになっており、外観よりも広い印象を受ける。
入口からわずかに歩みを進めたところで背後の扉はまた重々しく閉じられる。
バタンと言う音とともに並んだ二人の影が消えて、しばらくは静寂と生温かい闇が広がっていた。
「……さ、行くか」
「う、うん」
目が慣れてきたところを見計らって明斗が声をかけると、唯人は小さく頷く。
握った手をそのままに、二人は歩き出した。
館内は思ったよりも静かだった。時折離れたところから悲鳴が聞こえるものの、特に大仰な効果音が鳴らされるわけでもなくBGMの類もない。
通路は狭いわりにしっかりとした防音が施されているのだろう、まるで館内には自分たちしかいない
ような錯覚すら覚える。
とは言えそれも演出のうちなのだろう、わざわざ時間差を作ってまで個別に入場させるのだから。
・・・ガタン!
「ひっ!」
・・・バン!
「ひゃっ!!」
・・・ゴロンゴロン!
「ぎゃっ!!!……はぁはぁ……」
歩き始めて一分もかからず唯人は肩で息をしていた。
壁から出てくるお化けの手や、突然開く扉とその奥から転がってくる生首などはまだ序の口だろうが、
唯人はそのひとつひとつに悲鳴を上げて大仰に驚き、身をすくませた。
「お、おい……大丈夫か?まだ全然進んでないぞ」
「はぁはぁ……だ、だいじょーぶ……これくらいよゆーだし……」
「何か口調が変になってるぞ」
「き、きのせいだろ……」
明斗にしてみれば何が怖いのだろうと思うけれど、唯人のおびえ方はまるで小さい子どものようだ。
しかし明斗はその理由を知っているだけに、からかったり笑ったりはしない。
唯人は幼い頃にお化け屋敷で迷子になったことがあった。
親戚の家族と出かけた遊園地での出来事だったが、一緒に入ったいとこが先に行ってしまって取り残されたまま迷い、アトラクション内の従業員通路に入ってしまったのである。
暗くて狭い通路のようなものを抜けると、そこは使用していないお化けの筐体や道具を保管する倉庫だった。
けっこうな広さがあっただろうか、古くなって傷ついた妖怪が山となって積まれ、修理中の大きなトカゲや骸骨人形などがところ狭しと置かれていた。
また点検の途中で作業員がはなれたらしく、軋むような異音をあげて動く数体の怪物もあった。
それは薄闇の中で大量の魑魅魍魎が蠢くさまに見えたのだろう、べそをかきながらも出口を求めてたどり着いた先で遭遇した光景に、幼かった唯人は絶望した。
いとこが途中ではぐれたことに気がついて係員に声をかけ、アトラクション内を探し回ったが唯人は見つかれなかった。
一時間ほどして、持ち場を離れていた修理工が倉庫に戻ってきたときに、その入り口で気を失い倒れているところを発見したのである。
そして唯人はそれ以来おばけ屋敷はもちろんのこと、暗くて狭いところを極端に怖がるようになった。
明斗はそのことを唯人の兄から聞いていたが、実際に目の当たりにしたのは初めてだった。
怯えて震える姿は華奢な容姿と相まって庇護欲をかき立てられるが、これは唯人なんだ、友達だと自分に言い聞かせる。
しかも入り口からここまで、まだそれほど進んではいない。
このままずっとここに留まるわけにはいかないし、さりとて逆戻りするわけにもいかないだろう。
ひとつ息を吐いてから、両手を胸の前で交差させて自らの肩を抱く後ろ姿を見つめた。
「なあ」
明斗はようやく息が整ってきた唯人に声をかける。
「……ん」
「ちょっとガマンしろ」
「えっ?」
きょとんとする唯人の肩に手をまわして、ぐいと引き寄せる。すると軽い身体はよろりと明斗の脇あたりに収まった。
「えっ!……ちょっ……」
不意の行動に目を白黒させて、唯人は全身をこわばらせる。それはまるで初心な少女そのものだった。
「怖かったら下を向いてていいから、大丈夫だから」
抱かれた腕の重さに驚きつつ顔を上げると、明斗が優しく微笑んでいた。
ドキリ……。
いつもと違う親友の表情に、唯人の胸はわけもなく高鳴った。
「さ、先に進もう」
囁くようにこぼれてくる言葉も、いつもより低くて落ち着いている。
「う、うん……」
かあっと全身が熱を帯びたような気になって、顔を見ることが出来なかった。唯人はうなずいたまま、顔を伏せた。
それから二人は黙々と順路を進んだ。
いくつかの分岐もすべて明斗に任せて、言われたとおり唯人は俯いたまま歩く。
少し強引ではあったが、思ったよりも逞しい腕に守られている安心感と、自分より少し高い体温が、それまで胸を締め付けていた恐怖感を払拭してくれていることに気付いた。
落ち着いてくると羞恥心とともに疑問も浮かんでくる。
それは昼食時に交わした会話のことだ。
なぜ明斗は恋人を作らないのだろう。
朝からここまでの様子を見る限り、エスコートは申し分のないレベルだろう。と言うより唯人自身が今この時も胸を高鳴らせているくらいなのだから、もし本当の女の子だったらどうなってしまうのかと思う。
女の子だったら……。
幾度となくよぎった想いがかえって自分の男の部分を意識させる。
それは残酷なまでの現実であり、変えようのない事実なのだ。
いくら可愛いと言われても、それはあくまで女装をしている偽りの自分に対する評価であり、男であればやはり格好いいとか逞しいとかいった言葉が欲しいと思う。
もしも女の子だったら……。
そんな詮ない妄想が唯人の意識を捕らえて、二人が恋人のように寄り添って歩いたり、自分が女性として恋人に抱きしめられたりする光景が明滅する。
少年の薄い胸が、奥のほうできゅうと何かにつかまれたように苦しくなった。
唯人が顔を見上げるとなぜか明斗もこちらを見下ろしていて目が合う。
お互いに息がつまったような声を上げて、同時に視線をそらせた。
「あ、あのさ」
気まずさに唯人はしどろもどろに声をかける。
「な、なんだ?」
すると明斗も同じように応える。
「だいぶ落ち着いたからもう大丈夫……あ、ありがと」
そう言って太い腕をそっとどけようとするが、びくともしなかった。
「出口まではもう少しあるから、もうちょっと我慢してくれ」
「え……」
抱き寄せる力を緩めるどころか、むしろ強くして明斗は諭すように言った。
だがその行為は親友の体温と匂いを強く感じさせられて、つい先ほどの甘い妄想を思い出してしまう。
「い、いや……ちょ、苦しいから!」
たまらなくなってどうにか腕の中から抜け出すと、後ろめたい気持ちを抑えて明斗を睨んだ。
「もう、大丈夫だって言っただろ!」
「わ、悪い……つい」
ついって何だと問いただしたくなるが、それはなんだか墓穴を掘るような気がして踏みとどまる。
「ここからはちゃんと歩くよ、だいぶ慣れたし早く出たいからさ」
「……そうだな」
唯人が先導しようとしたところで明斗は右手を差し出してきた。
その手を取るべきかと迷った唯人の目の前に、ガタンという音を立てて何かが落ちてきた。
「ぴっ?」
それは落ち武者の生首だった。ちょうど唯人と目が合う高さにぶら下がり、あろうことかニヤリと笑った。
「ひぃゃああああああああああああああぁぁぁ!!!」
今日一番の悲鳴を上げて、少女は傍らに立つ人物に縋りつく。
明斗は突進するように胸に飛び込んできた親友を抱きとめた。
「お、落ち着け!これ作り物だって!」
さすがに明斗も狼狽して、自分のみぞおちあたりにぐりぐりと頭を埋めている唯人に言い聞かせると、ハッとしたように身体を離した。
「いや……何というか、その……」
無意識に抱きついたことが無性に恥ずかしくて、もじもじと身をよじる。
「そ、そうだ早く行こう!!」
行き場のない羞恥と恐怖、それから焦りに駆り立てられるように唯人は急に身を翻して走り出した。
「お、おい!危ないぞ!」
突然のことに驚いた明斗は声を上げるが、唯人は止まらない。
しかし慣れないヒール付きのサンダルで走ったために、ほんの数メートルを行ったところで急にバランスを崩してしまった。
「あっ!」
踏みしめたはずの左足の踵が意図しない向きにずれて、足首から嫌な感触が伝わってきた。そしてそのまま前方に崩れ落ちる。
固い床に左ひざと、思わず突き出した両方のひじをしたたかに打ち付けて、唯人はうめき声を上げるしかなかった。
「大丈夫か!?」
あわてて駆け寄った明斗が腕をつかんで引き起こすが、端正な顔は苦痛にゆがんでいた。
つかみきれてしまいそうに細い腕の柔らかさにおののきつつ状態を探ると、唯人は足首をひねったと応えた。
言われたとおりに足首に触れる。暗くてわからないが、まだ腫れてはいないようだ。
「……いつっ」
触診するように押すと小さく身震いして声を上げる。
サンダルを脱がせた足先は爪にペディキュアが塗られていて、女の足そのものに見えた。
さわった感触もやや低めの体温と、すべやかな肌がなまめかしくてドキリとする。
親友である唯人に頼み込んで女装を仕向けたのは明斗自身ではあったが、ここまで完璧に女性に見えてしまうのは誤算であり、倒錯的な世界に足を踏み入れそうな気分になってしまう。
しかも先ほどからずっと自分に頼りきりでしおらしい姿も目の当たりにしているのだ、実のところ今も押し倒してしまいたい衝動を何とか抑え込んでいるところなのだった。
どうかしているとは思うが仕方ない……。
「無理して歩かないほうがいい、ここを出たら医務室に行って診てもらったおう」
平静を装って言うと唯人は小さくうなずいた。
「……うん」
「よし、じゃあ行こう」
そう言って明斗は唯人の目の前で背中を見せるようにしゃがんだ。
「え?」
「さ、乗れよ」
明斗は自分の背におぶさるようにと誘うが、唯人は慌てて手を振った。
「い、いいよぉ……自分で歩けるって」
「何言ってるんだよ、もし骨とか腱とかを痛めていたら大変だろ?」
「そりゃそうだけどさ……」
明斗の言葉に渋る唯人だが、たしかに足の痛みはズキズキと強く大きくなっていく。
「たぶんもう出口は近いし周りは誰もいないんだから、恥ずかしがらなくても大丈夫だよ」
「ううっ……」
諭すように言われて唯人は呻くが、渋々その提案に従うことにした。
目の前にいる親友の背中に身体を預けると、思いのほか広かった。
最初は恐る恐る肩につかまっていたが、歩きづらいと言われて仕方なく両腕を、これも予想外に太い首に回すと「おまえ、軽すぎだ。もっと食べろよ」なんてからかわれてムッとした。
それでも初めての明斗の背中は温かくて、ちょっと汗の香りがしたのだった。