26
店を出た唯は、そのままの足で駅ビルを横断すると、改札には行かず化粧室に入った。
明斗がもし後を追ってきたなら、来た道を戻ったところですぐに追いつかれてしまうと思ったからである。
ただ、その可能性は高くないと唯は思っていた。
それよりも唯は、おそらくこれまでの中で初めてで、かつ最悪の方法で明斗のプライドを傷つけただろうと嘆息する。
もう少し上手な切り返しや、あるいは話し合う余地があったのではと思い返してみたが、答えは浮かんでこなかった。
「はぁ……」
小さく息をついて、鏡に映る自分を見つめる。
今回のことはたぶん、ほぼ全面的に自分が悪いのだろう。
明斗の物言いに思うことが無いわけではないが、それだけ彼が自分に想いを寄せているのだとすれば、わからなくもない。
そもそも唯が明斗を誘って逢ったのだし、電話のやりとりだって彼の気持ちを試すような内容だったと、自分でも理解をしている。
今は無理でも、落ち着いたら謝ろう。そう呟いて唯は、何気なくカバンに入れたままにしてあったスマートフォンを取り出した。
着信を示すランプが明滅していて、操作をすればメールと電話が一件ずつ入っていた。
電話は成美から、メールは健からで、二件ともこの五分ほどの間に送られてきていた。
どうしようかと逡巡した瞬間、手に持った筐体が震えて思わず落としそうになる。
「も、もしもし!」
電話着信に慌てて出れば、電話は成美からだった。
『あ、ユイちゃん!いまへーき?』
「う、うん。大丈夫だよ」
『よかった、今どこにいるの?』
成美からの問いに、唯は先ほど通った道すがらに見た、雑貨店の名前を告げる。
『あ、やっぱりさっき見かけたのはユイちゃんだった。ね、今ひとり?』
「う……うん、ひとり」
『そっか、よかったら合流しない?一緒に回ろうよ』
そう言って成美は、待ち合わせ場所を告げてきた。突然の展開に頭がついていかないことを自覚しながらも、唯は頷いた。
「はぁ……」
通話終了の表示が消えて、暗くなった画面を見下ろしながら小さくため息をつく。
一瞬、やっぱり断れば良かったという考えが浮かんだが、頭を振って霧散させて化粧室を後にしたのだった。
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「あ、ユイちゃん!こっちだよ!」
指定された場所に行くと、成美と萌が手を上げて呼んできた。
そこには二人のほかに陸上部の美佳をはじめ、クラスの運動系部活動に所属している女子数名がいた。
「えっと、こんにちは?」
唯がぎこちなく挨拶をすれば、みんな手を上げたり返事をしたりと返してくれた。
「みんな唯ちゃんと話をしたいって言っててね、ご飯は食べた?」
「う、うん」
「今日はカレ……いや、前の学校の友だちだっけ。とは、もういいの?」
「……うん、大丈夫」
明斗とのことを問われて一瞬だけ詰まるが、コクリと頷けば唯の様子に何かを察したのか、それ以上のことは聞かれなかった。
成美たちは昼食を終えて、これから宿泊学習のときに着る物や、小物などを買って回るところだった。
その途中で、俯きがちに一人で歩き去る唯を見かけたのだと、萌が電話の理由を話してくれた。
ちなみに部活で使うような個々人の用品は既に購入済みで、皆それぞれに思い思いのショップやブランド銘が書かれた手提げ袋を持っている。
「宿泊学習といっても、山登りしてカレー作って、夜はロッジみたいなホテルに泊まって、帰ってくるだけなんだよね」
「そうそう、だから今日のメインは夜に着るパジャマなんだよ」
「山登りは学校のジャージだしね」
「あ、リュックサックも買わないと。わたしの小さいんだよね」
「うちは靴もかな。革靴と平べったいスニーカーしか持ってないし」
「バッシュは何足も持ってるのにね」
「しょーがないよ、バッシュは消耗品だから」
萌が背中を押すように唯を輪に入れると、それを合図に少女たちは歩き出す。
彼女たちの話によればカバン、シューズ、パジャマという順番で店や売り場を見ることになり、カバンとシューズが必要なメンバーは
それぞれに別れて、後で合流することになった。
唯は当然、何の準備もして来なかったため、成美や萌と一緒に見て回りつつ、母と相談して後日揃えようと思った。
……のだが。
「ねえねえ唯ちゃん、このパジャマ一緒に買おうよ!」
「えーっ、こっちの方がいいよ。絶対可愛いって!」
「えっと……これは綿100パーセントだし、着心地すごくいいよ」
気がつけば、成美と萌と同級生の三人に囲まれてパジャマ仲間に勧誘されていた。
ちなみに成美は着ぐるみのキャラクターもので、フードに耳付き、お尻の部分に尻尾付きと、春とはいえ暑いだろうし、寝づらいのではと想像できる。
萌のチョイスは、前開きの上着とズボンといった一般的なものだが、パステルピンク地にパステルグリーン、同イエロー、ライトブルーのデフォルメされた猫が描かれている。ちょっと子どもっぽいデザインのように思えるものの、可愛いと唯も思った。
もうひとりはあまり話したことはなかったが、萌とよく一緒にいる矢島 皐月だった。ショートカットが似合う少女で、所属がバスケットボール部だとは後で知った。
皐月は二人とは対照的に、ダークネイビー地にクリーム色のラインが襟元や袖口に走る、どちらかといえばシックなものを手にしていた。
表示を見れば本人が語ったように綿100パーセントで、織物で有名な地方で作られた生地を使っているとタグに謳われている。
「うーん、サッちゃんの、ちょっと地味じゃない」
「派手じゃないけど良いよ。じつは普段もこのパジャマ着てるんだ」
「へえぇ……」
さりげなく渡されたパジャマは、なるほど確かに手触り滑らかで、上質なものだとわかる。
そのぶん他の2着より値段は張るが、倍まではしない。
宿泊学習から帰ってからも長く着ることが出来るだろうと思えばあながち間違った選択ではないだろう。
皐月のカゴ見れば、色違いのものが既に入っていた。
「たしかに着やすそうだね」
「うん、ピンクとか黄色とかも一応はあるけど、篠崎さんはこういう落ち着いたのが似合うかなって」
胸の前で合わせてみれば、サイズもちょうど合っているようだった。
皐月の顔を見ると目が合って、自分と背格好が変わらないから同じサイズにしたのだと笑顔を見せた。
自分が使っている良いと思うものを、さりげなく他人に勧めることは簡単ではない。
ややもすれば自分の感覚ばかりが先立ってしまい、ただの押し付けになってしまうだろう。
しかし皐月にはそういった様子がなく、あくまで選択権は唯にあるという姿勢が好ましいと思った。
「……これにする」
唯は渡されたままパジャマを抱くように、そう呟いた。
「やった、一緒の部屋になれるといいね!」
皐月は嬉しそうに笑って言い、宿泊学習では登山とカレー炊飯の班と、宿泊の部屋割りがあるのだと説明した。
彼女たちがなぜ、そこまで内容に詳しいのかといえば、部活の先輩に色々と聞いているらしい。
「ええっ、着ぐるみ一緒に着よーよぉ」
「私もこれにしようかな……」
不服そうにする成美をよそに、いつの間にか萌も自分サイズの、二人と同じものを手に取っていた。
結局は四人とも皐月が選んだパジャマに揃えることになり、会計を済ませた後は、売り場近くにあるフードコートでカバン組、シューズ組の面々を待つことにしたのだった。
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「はいオレンジジュースと、アイスコーヒーね」
「あ、唯ちゃん、ありがとう」
「唯ちゃんのは?」
「萌ちゃんが持って来てくれてるよ。大丈夫」
テーブルで待っていた成美と皐月にそれぞれカップを渡して、自分のバッグを置いていた席に着く。
土曜の夕方近くということで、フードコートの人出は多かった。
二人ずつ分担して成美と皐月が場所取りを、成美と唯と萌が飲み物と、軽食を買ってくることにしたのだった。
「他のみんなはどのくらいで来るんだろうね」
「いま見たらパジャマ売り場にいたから、もう少しだと思うよ」
何気なく皐月が言うのと、トレーを持って戻ってきた萌が言った。
「あ、萌お疲れ~」
「うん、あ、はい唯ちゃんのミルクティーね」
「ありがとう」
萌も席についたのを合図に、成美がそういえばと口を開いた。
「この前、学校で唯ちゃん私に何か言いかけたけど、何だったの?」
「あ、えっと……」
不意の質問に、唯は答えに窮する。萌と皐月の顔を見ると、二人は不思議そうな表情をしていた。
この前は勢いで告白しようと思い立って言い出したことだが、急に振られると言葉に詰まってしまう。
「その……」
「あ、別に無理に言わなくてもいいよ。忘れちゃったかもしれないし」
唯の苦しげな様子に成美は、両手を身体の前で振って話を終わらせようとした。
しかし、唯のほうでそれは大丈夫と手を挙げると、飲もうと思って持ったままのカップに口をつけた。
「えっと……謝らなきゃいけないんだ」
カップを置いてひとつ息を吐いたあとに出てきたのは、呟きのような声だった。
「謝る?」
心当たりのない成美の問いかけに、萌や皐月も顔を見合わせた。
「うん、私ねホントはみんなより一つ年上なの。去年の夏から休学して、今年また高一をやり直してる」
「へえ……それって、何か病気だったとか?」
唯の言葉に、成美が恐るおそる尋ねる。
「うん、病気……というわけではないんだけど、きっかけは貧血で倒れたことなんだけど……えっと、それでね……私……去年まで男として生きてきたの」
「へ?」
「は?」
「え?」
意を決して告げたあとの三人の反応は、驚きよりも困惑が勝っていた。
俯いていた顔を上げれば、萌と目が合う。
訝しげに見つめ返してきたが、唯の言葉が冗談ではないと理解したのだろう。
三人の中で一番早く再起動したのは萌だった。
「えっと……元々は男の子だったのに、今は女の子で……性同一性障害ってこと?」
「え、だってこの前生理だって……」
萌の言葉に反応したのは成美だった。
「う、うん……ちゃんとあるよ、ちゃんと……」
成美の呟きに、ちょっと恥ずかしそうに応える。
そのせいで告白時は蒼白に近かった唯の頬に、少しだけ赤みが戻った。
「じゃあ、元々は女の子だったけど、男の子として育てられたってこと?」
今度は皐月が口を開いた。
唯は小さく頷いて、そうだと頷いた。
「うん、本来の性別は女性だったんだけど、生まれたときの見た目が男の子みたいで、男として育てられたんだよ」
「えーでもさ、唯ちゃんを見て誰も男の子だなんて思わないよ」
「「たしかに」」
成美の率直な言葉に、萌と皐月も唯の胸元に視線を送りつつ頷く。
「えっと、その……でもホント、その時まで自分も家族も男だって疑ってなかったし、小さい頃はお父さんの子どものころに
そっくりって言われてたんだよ」
視線を感じた唯は腕を交差させて、胸を隠す仕草をしながらボソボソと弁解した。
「唯ちゃんの家族って、みんな美形そうだもんねぇ」
「「たしかに」」
「そ、そんなことないよ……それより、みんなを騙しているのが心苦しくて」
「えっと……年上ってこと?」
「やっぱり、ちょっと大人っぽいって思ってたよね」
「私もあと一年すれば大きくなるかなあ」
「ええっ?いや、ソウジャナクテ……」
どうも思っていた展開とは違う方向に話が進む予感がして、慌てて会話を戻そうとするが、見れば笑顔の皐月と目が合った。
「えっ……と」
「なんか安心したっていうか、入学のときからずっと見ていたけど」
パクパクと言葉を選ぶ唯とは対照的に、皐月は落ち着いた声で語りかける。
「えっ?」
「すごい美人でスタイル良くて、入試の成績も抜群だったって聞いていたから、どんなに性格悪いだろうって実はみんなで話してたんだ。あ、最初の頃の話ね」
「そ、そうなんだ……」
口調とは裏腹な内容に思わず息を呑む。成美と萌に視線を送れば、さりげなく目をそらされた。
「でも実際は全然そうじゃなくて、おとなしいし優しいし可愛いし、みんなすぐに唯ちゃんのファンになったんだよ」
「そ、そう……ナンダ」
何とかそう応えるが、顔に熱が集まってくるのがわかる。きっと真っ赤だろうと唯は自分で思った。
言われてみれば、思い当たらないわけでもない。
最初の頃は余所余所しかったクラスメイトたちだが、皐月をはじめ、この頃は面と向かって挨拶を交わせるようになっていた。
「だけど、いつも何か遠慮しているみたいだし、隠してる?みたいなところがあるって感じたんだ」
「……」
皐月の言葉に、唯は三人の顔を順番に見渡す。
「それがやっと何のことだったのか、わかってよかった」
「……うん、ごめん」
「謝ること、ないよ。悪いことなんてないし」
唯が思わず項垂れかければ、すかさず成美が口を開いた。
「それに、このこと他の人には言わないよ。言わないほうがいいよね?」
「そうだよ、四人だけの秘密、ね」
萌もそれに加わり、横から唯の手をぎゅっと握ってきた。
対面にいた成美が立ち上がって背後にまわり、背中から首元に腕を回して抱き込まれた。
気がつけば、広めの円形テーブルなのに、唯を囲むように三人が集まっていた。
「……うん、ありがと」
背中に感じる柔らかさと、手の甲を覆うぬくもりに、それだけを喉の奥から絞り出すように言えば、鼻の奥がつんとして顔を上げていられなくなった。
鮮明に見えていたはずの手元やカップが急にぼんやりと滲んで、頬を伝う熱さに戸惑う。
嬉しさと申し訳なさと、切ない思いがない交ぜになったような不思議な感情が溢れてきて、あとはもう何も言えずに鼻をすすり上げることしか出来なくなった。
その後、他の子たちがやってきて、目を真っ赤に腫らした唯を見て事情聴取が行われるのだが、成美がたまたま買っていたわさびチップスのせいにして言い逃れたのも、四人だけの秘密である。




