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食べ終えた皿が下げられて、入れ替わりにコーヒーと紅茶がテーブルに置かれた。
唯はクリーム系パスタの後だからと、紅茶の添えものにミルクではなくレモンを頼み、明斗はコーヒーをブラックの
まま口につけた。
「デザートは頼まなくてよかったのか?」
コーヒーが予想より苦かったのか、少し眉をひそめて明斗は唯に訊いた。
「ん、お腹いっぱいだよ」
角砂糖を溶かし、レモンのおかげで明るい色になったカップに近づけていた唇を、いったん離して応える。
「なんで、ずっと連絡をくれなかったんだ?」
カップをテーブルに置いて尋ねた言葉は、明斗がここまで見せる素振りのなかった、苛立ちをわずかに含んでいた。
唯は片手で持っていた紅茶のカップを両手で包むように持ち直すと、オレンジ色に揺れるレモンに視線を落とす。
何度かその小さな唇を動かして、言いよどみつつも顔を上げた。
「……気まずかったから」
「気まずかった?」
「うん、だって……その、明斗の気持ちはわかっていたけど、上手く受け入れられなくて」
呟くようにそう言って、ようやく口をつける。
「私が実は女だってわかって、一番ショックを受けたのはお母さんでね。最初のうちは気分の浮き沈みが大きくて、
笑っていたかと思えば泣いてる。そして決まって言うんだ、『ちゃんと生んであげられなくてごめんね』って……そんなことが何度もあったんだ」
不意の告白は明斗の記憶にある彼女の母親の、たおやかな美貌を思い出させる。
自分の母親とそう歳は違わないはずなのに、きめ細やかな肌つきやウェーブがかかった栗色の艶髪は、やはりどう見ても唯人と歳の離れた姉弟にしか感じられなかった。
微笑みを向けられると頬が熱くなったし、そばに寄ればふわりと届く香水と、メリハリのある肢体には「母親」よりも「女性」を感じていた。
そんな綺麗で可愛い年上の女性である人物の、焦燥した様子を想像しようとしたが、上手くはいかなかった。
明斗の沈黙を相づちに代えて、唯は話を続ける。
「それで明斗と最後に会った日から、本当にちゃんと女の子になろうって思ったんだ。言葉遣いやしぐさ、服装とかなんでも、誰から見られても女の子に見えるように。
誰も高一まで男として生きてきたなんて見破れないようにしなくちゃって。
親戚に同い年の従姉妹がいたから、お願いして色々と教えてもらうことにしてね」
唯はカップをソーサーに置いて明斗に、ちゃんと自分は女の子に見えたか。と尋ねた。
明斗は何も言わず、ただコクリと頷いた。
「なら良かった。でもね、女の子らしくしよう、可愛くなろうって頑張ればそれだけ明斗とか、元のときの知り合いや友だちとは会いづらいなって思ったんだよ。そういう気持ちって、わかってもらえる?」
「理解はするけど、それが連絡をくれなかった理由にはならないだろ。そもそも俺はおまえが本当は女だったって聞いたんだし」
「それは……そうだね」
「そもそも、俺がどんなにおまえと逢いたくて話がしたくて、でもこっちからは連絡しないほうがいいかもって思っていたか。
何度も電話しようと思ってやめて、また思い立ってやめてを繰り返した……その気持ちはわかるのか?」
「……ごめん」
明斗の淡々と、しかし怒りを孕んだ言葉に唯は謝ることしかできなかった。
けれどそんな唯の様子に明斗はコーヒーだけではない、苦々しい表情を浮かべる。
「しかも新しい学校で何人にも告白されて、挙句に健のヤツとつきあおうとしてるんだろ?俺のことは放っておいて」
「そ、そんなこと……」
「挙句に『私のどこが好きだったか?』なんて、訊くか普通……なんだか話していたら腹が立ってきた。おまえ本当は俺のこと、どうでもいいって思ってるんだろ?」
「そんなことないよ!」
売り言葉に買い言葉のように声を上げれば、一瞬だけ他の客からの視線を感じる。
いや、実のところは最初から結構な注目を集めていたのだが、和やかな食事の雰囲気から一転して痴話喧嘩の様相に至っている状況は、第三者から見れば興味をそそられるのだろう。
「……じゃあ、どう思っているんだよ?俺のこと」
「えっ……?」
沈黙を破ったのは明斗の呟くような問いだった。
「どうでもよくないなら、俺はおまえの何なんだって訊いたんだよ」
「そ、それは……その、大切な友だちだよ?」
「却下」
「ええっ?」
唯の玉虫色な答えをばっさりと切り捨てて、明斗はコーヒーに口をつける。もう中身は残っていなかったが、わずかな残滓を啜る。
「だってそうだろ?俺がおまえのどこが好きかって、全部に決まってるじゃん。だから友だちなんて、今さら認めるかよ」
「……」
顔を上げれば、飄々とした口調とは裏腹に真剣な眼差しと目が合う。思わずごくりと唾を呑みこんだ。
「前にも言ったけどな、他の誰かとつきあうなんて認めない」
「そ、そんなの……勝手だよ」
「勝手に離れようとしたのはそっちだろ」
「それは……」
冷ややかな言葉に唯は絶句する。だが見つめてくる視線はたぎるように熱いのだ。
「元は男だったのを知られたくないからって引っ越したなら、今の学校に広めてやろうか?」
「えっ!?」
唯は冷水をかけられたように、背中がゾクリと震えた。
カップにそえていた指先の感覚が失われたように思えて、まわりの喧騒が遠のいていく。
たぶん呼吸も止めていたのだろう、苦しくなって我に返り、浅い息を取り戻したのはずいぶん経ってからだった。
「どうなんだよ、何か言い返すくらい出来るだろ?」
目を見開いたままうつむき、動かなくなった唯にすこし苛ついたのか、あえて嘲るような言葉を明斗は投げかける。
だが唯はピクリと肩を一瞬上げただけで、青白くなった顔のままだった。
脅迫めいた問いかけに凍りついた身体と裏腹に、唯は頭のどこかで明斗の言動に納得し、反省もしていた。
明斗の言い分は間違ってはいない。
たしかに昨年の夏、明斗からの告白をはぐらかすように離れて、そのまま半ば音信不通のようになっていた。
久しぶりの連絡が明斗の恋情を揺さぶるものだったことも、出来心のようなものであったが、短慮だったと思う。
しかし、だからといって明斗の言うやり口は受容できるものではないだろう。
そういえばと中学時代からの明斗のことを思い出せば、もともと自分がこうと決めたことは曲げないたちである。
カリスマ性もあり、彼の言動に振り回されて疲弊したことは幾度となくあったのだ。
当時は対等な関係だと思ってはいたが、実はいつも唯人は明斗の後ろにいて、付き従っていたのだということに思い至る。
明斗が自分に好意を持っているのは、恋愛感情というよりも独占意識なのだろう。と唯は思った。
たったひと言が胸を衝いて、そこからひび割れていくような、ひどく切ない感情が湧き上がった。
「……いいよ」
ぼそりと呟くように発した言葉を、明斗はどのように捉えたのだろうか。
「なにっ?」
よく聞き取れなかったようだ。
もう一度、血の気が引いたままの顔を上げて、ゆっくりとはっきりと唯は言う。
「いいよって言ったの。私のこと、ばらしたければ言えばいい」
「……」
思わぬ返事だったのだろう、今度は明斗が黙る番だった。
「明斗の言うとおり、連絡してあんなことを訊いたのは私が悪かったと思う。だから、それで気がすむならしょうがないよね。なんか微妙な話になっちゃったけど、久しぶりに話ができて良かったよ」
唯はそう言って立ち上がる。手を伸ばして明斗が脇に置いた、自分の鞄を取り上げようとするが、持ち手に触れたところでその腕をつかまれた。
「落ち着け、座れよ。まだ終わってない」
「落ち着いてるし、もう話は終わったよ。わざわざ来てもらってありがとう……痛いから手を離してもらえる?」
「おまえがちゃんと座るっていうなら、離す」
「悪いけど、もう話せないよ。明斗は私のことを好きだって言うけど、本当に好きだったら私が守りたいものを壊そうとはしないでしょ?」
唯は明斗の目をまっすぐに見つめ返して、静かに言った。
掴まれた力がわずかに緩んで、その隙に鞄を持ち上げると胸の前に抱える。
もう一度つかみ掛かってきた腕をわずかに身を引いて避けると、鞄の中の財布から紙幣を数枚取り出してテーブルに置いた。
「せっかく来てくれたしご馳走しようと思ったけど、足りなかったらよろしく」
淀みなくそうひと息に言って身を翻す。
「唯!」
明斗が席から立って追いすがろうとするが、奥側に座っていたこととソファタイプの椅子だったことが災いして、
テーブルの間から抜け出したときには唯の背中が店の出入り口から消えるところだった。
明斗はテーブルに置かれた数枚の札紙に目を落とす。
不足するかもと言ってはいたが、それは明らかに二人が頼んだ注文よりも多い金額だった。
「ちっ」
小さく舌打ちして無造作にそれをつかむと、ふとその横にあったティーカップに視線が引き寄せられる。
それはつい今まで少女が唇を寄せていたものであり、中身は半分以上残っていた。
もう冷めてしまったであろうオレンジ色の液体に浮かぶレモンを眺めて、明斗はもう一度舌打ちした。




