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二人で入るには少し小さい、空色の傘を差した唯と少女は、まるで姉妹のように身を寄せ合って歩いていた。
ピロティを出る前に自己紹介は済ませていて、少女の名は岩隈 芽衣華といい、中等部の三年生だった。
「唯さまは高等部からの編入生ですね」
「うん、わかる?」
「はい!唯さまほど綺麗で上品な……あと優しい先輩は他にいませんから!!」
「そ、そんなことないよぉ?」
芽衣華の力強い言葉に、唯は肯定も否定も出来ずに苦笑する。
唯の目から見れば、芽衣華の立ち居振る舞いは十二分にお嬢さまのそれであり、改めて歴史のある私立学校に入ったのだと思う。
幼稚部から高等部まである学園の創始は明治以前まで遡り、駅名になるくらいは地域のランドマークだった。
そういえば唯の母もこの学校を卒業していると聞いていたし、もしかしたら祖母もそうであるかもしれなかった。
芽衣華に母のことを話せば、嬉しそうに自分の両親も学園の卒業生であり、関係者でもあると答えた。
「へえ、家族が学校に勤めているんだ。先生なの?」
「いえ教員ではないんです」
唯が興味本位に訊くと、芽衣華は我に返ったような顔をして小さく首を振る。
「母は経理関係で、父は総務……本人は雑用係って言ってましたけど」
「そうなんだ、すごいね」
両親が学園関係者と聞いて素直に感心すると、少女は少しだけ笑顔を浮かべて、しかしやんわりと否定した。
「すごい……ということはないですけど、便利な面とそうでないところがあります」
言い含んだような言葉と浮かべた笑みが、少しだけ翳りを帯びていることに気がついて、唯は簡単な相づちを打つ。
そしてふと、頭に浮かんだ話を聞かせることにした。
「うちにね、もう十歳になる猫がいるんだ」
「……ネコ、ですか?」
「うん、ニャーニャーっていう猫ね」
急な話題の転換に芽衣華は一瞬訝しんだ。けれど唯が真似をした猫の鳴き声が子どもっぽかったからだろう、先ほどとは違う素直な顔に戻った。
「その猫の名前は”鈴”って言うんだけど、あ、ちなみにメスね」
芽衣華の変化に安堵を覚えつつも、表情には出さないようにして唯は話を先に進める。
「その鈴は、私が小さい頃におじいちゃんが、道端に捨てられていたからって拾ってきたんだ。
たしか寄り合いか何かの帰り道に、ダンボール箱に入っていたんだって。今日みたいに雨が降っていて、ダンボールはぐちゃぐちゃになって潰れてて、そこから小さな鳴き声がしていたんだって言ってた」
傍らを歩く少女に目を向ければ、何も言わずに次の言葉を待っていた。
唯は少し目尻を緩めて、話を続けた。
「箱の中には鈴の他にも二匹、いや三匹だったかな?が入れられていて、みんな生まれて間もない子猫だったけど一番小さいのは鈴で、だけど連れて帰って面倒を見るうちに他所へもらわれたり死んじゃったりして、最後に残ったのは鈴だったんだ。
鈴はね、そのことを理解しているのかどうか知らないけど、すごい偉そうなんだよ」
その内容には裏話があって、まだ幼い唯人が鈴を一目で気に入り、祖父母に飼うことをねだったのだが本人は覚えていなかった。
「……偉そう?」
「そう、ふてぶてしいって言うのかな……結局、今も身体は小さいのに態度は大きいの、昔から……特にボクにね!」
「ふふっ」
唯が傘を持っていない、鞄を持つ手を広げるようにして言えば、芽衣華は思わず笑い声を上げた。
「たとえばリビングのテーブルに椅子が四つあって、おばあちゃんとお母さん、私の三人はいつも座るところが決まっていて、だから一つは必ず空いているのに、なぜかいつも私の椅子の上で寝ているんだよ。
それから、私以外の家族は……いつもはいない兄さんとかも含めて、抱っこしてもおとなしくしているのに、私が抱き上げようとすると全力で逃げるの!ダーッて走って、捕まえると『イヤイヤ』って両手……前足をこう、突っ張ってね!」
話しているうちに唯も少し興奮して、傘が多少揺れるのも気にせず身振りを使って示せば、少女もいつの間にか口をあけて笑っていた。
「ホント、ひどいと思わない?寝ようと思って部屋に行けば枕の上に丸くなっていて、どかそうとすると怒るし!だから毛が抜け変わる時期はもう大変!!」
「アハハハ!……すいません、可笑しくて……鈴ちゃんは唯さまのことを妹だと思っているのかもしれませんね」
笑いが止まらなくなり、歩いていられなくなった芽衣華はお腹を押さえて何とかといった感じにそう言った。
「そうかなぁ」
「たしか猫や犬は飼われている家の家族構成を見て、自分のポジションを判断するって何かで読みました」
「ふうん、言われてみるとそうかもしれないね」
芽衣華の言葉に唯は頷いた。
「ところで唯さまって、興奮してしゃべると自分のことを『ボク』って言うんですね」
「……あ、うそ?ごめんね、変でしょ」
不意の指摘に唯は焦って謝る。しかし芽衣華は笑顔で首を振った。
「いいえ、可愛らしくて素敵だと思います。さっき誘ってくれたときも凛々しい声で格好いいなって」
「そそそ、そう?」
唯はかあっと顔が熱くなるのがわかった。
そういえば男として過ごしていた人生の中で、女の子とこんなふうに並んで歩いたことも無ければ、楽しくおしゃべりをしたことも無かったと思った。
「はい……あの、唯さま」
「ん、なあに?」
「今日はありがとうございました。とても……嬉しかった、です」
気がつけば、もう駅は目の前で、傘に当たる雨音も小さくなっていた。
「うん、私も楽しかったよ」
上目遣いにはにかむ芽衣華を可愛いと思いつつ、唯もにっこりと笑顔を向けた。
「そそそ、それで、ですね……」
すると少女は目を見開き、顔を真っ赤にしてもじもじと言い淀む。
その左手にはシャンパン色のスマートフォンが握られていて、上げようか下げようかというように揺らめいていた。
唯は芽衣華の胸中を察して傘を閉じると、自分もスカートのポケットから自分のスマートフォンを取り出した。
そして、そのまま目の前にかざすように見せて笑いかける。
「うん、また会いたいね。よかったら連絡先を教えてくれる?」
「は、はい!」
一瞬きょとんとした芽衣華だったが、すぐに大きく頷いた。
今日一番の、ぱっと花が開くような笑顔だった。
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ある晩のこと、夕食を終えて自室に戻った山岸 健が、机に置いたままにしていたスマートフォンを見ると、着信を知らせるランプが点滅していた。
画面を操作してみれば唯からのメールと、従兄弟の明斗からの電話が履歴に残っていた。
唯のメールは健から送っておいた、映画への誘いの返事だった。
一年ぶりの再会から、学校では顔を合わせられない代わりに、二人は結構な頻度でメールのやり取りをしていた。
それは最初のうちこそ智也に言われた通り、健が送り唯がその返事をするという流れであったが、次第に互いのことがわかっていく中で、読んでいる作家や好きな映画、ドラマなどの趣向に相通ずるものを感じるようになっていった。
これまで彼に言い寄ってくる女の子たちの多くは良くも悪くも女性的であり、恋愛に意思が向かないサッカー少年にとっては異文化人のようなものだった。
それが見た目こそ極上の美少女である少女が振ってくる話題は、お勧めアクション系映画の紹介であったりプロ野球やサッカーなどの観戦評だったりするである。
健は彼女が男性として育ってきたところを実際に見たわけではないが、そこには確かに少年の面影があった。
だから面と向かっていない、画面上での会話はどことなく気の置けない同性同士のような錯覚を覚えて、しかしやり取りの端々に女性らしい
感性を垣間見る場面もあり、唯のことを好ましく思う気持ちを増大させた。
またやり取りを重ねるたびに思いは高まっていく。
しかし一方で、唯との距離感については慎重にはかるようにしていた。
既に二度の告白をしていた健ではあったが、彼女の中の「少年」を感じて以降は、強いアプローチを避けるように努めた。
それは何となく、もし自分が同じ立場だったらそう望むだろうと思ったからだ。
すると唯のほうも当初のこわばりが抜けて自然な言葉を返すようになり、返信を受けるたびに喜びは増した。
そして再会の日から直接は一度も逢えていない現状からの脱却のために、来月に公開される映画に誘ったのである。
明斗とは昨年の夏に会ったきりで、メールのやり取りすらしていなかった。
親戚とは言っても、たとえば年末年始にどちらかの家に行くなんてことも稀であったし、特に近年は互いに部活動が忙しくて会う機会は皆無になっていた。
だからだろうか、健にはかえって着信の理由がわかる気がして、掛け直せばすぐに聞き覚えのある返事があった。
『健か?』
「ああ、久しぶりだな。どうしたんだよ?」
一応そう尋ねてみるが、明斗の返答は予想通りのものだった。
『あいつと、唯と会ったんだって?』
「ああ、ナンパされて困っていたから助けたよ」
『ナンパ?』
怪訝な声を上げる明斗に、健はいきさつを説明した。
その際に自宅まで送り届けたことは話したが、二度目の告白については触れていない。
そもそも最初の告白だって明斗は知らないはずだった。
『……そうか』
受話口の向こうから安堵の声が聞こえて、そこで健はひとつの確信を得たように感じた。
「お前さ、あの子が実はちゃんと女だったって言わなかっただろ」
『そうだったかな』
とぼけたような、あまりにわざとらしい言い逃れに吹き出しそうになりながら、そうだと言い張る。
そもそも去年の夏のファンタジーランド以降、二人は一度の会話もしていないのである。
「それで、電話をしてきたってことは、何か用事があったんだろ?」
健はため息をついてそう尋ねる。
『同じ学校だって聞いたけど、本当か?』
「ああ、学年はひとつ下になっているけどな」
『ちゃんと行っているのか。ばれていないんだな?』
「ばれて?……ああ、全然違和感ないしな。むしろ結構な勢いで告白されているらしいよ」
『なにぃ?』
さらりと言えば、明斗は気色ばむ。ちなみに同級生の弟情報である。
「俺もコクったし」
『えっ』
更にポロッと告げれば、電話の向こうは絶句したようだった。
『……唯に手を出すな』
ややあって、放たれた言葉は地を這うような低い凄みのある声だった。
「それはお願いか、それとも命令?」
『……どちらでも』
ぼそぼそとした返答を受けて、はじめて健は自分が机の前で立ったままであることに気づいた。
ベッドに腰掛けて、ひとつ息をつく。
「答えは決まってる、ノーだ」
『……』
「お願いなら断るし、命令だって言うならそもそも聞く必要はないからな」
『あいつは……俺のだ』
「嘘を言うなよ。それなら何で転校先を知らないんだ?お前、俺の学校を知っているはずだよな。
それにお前のことを彼氏だって思っているなら、告白されてもちゃんとそう答えるはずだろ。
あの子は俺に、一言もお前のことは言わなかったぜ」
『嘘は言ってない、俺はずっとあいつのことを見てきたし、一番わかってる』
「ふうん、まぁ本人が何を考えているかはわからないからな。
でも彼氏持ちならデートの誘いにホイホイと乗ってくるかね?」
『なにっ?』
からかうように言えば、気色ばんだ様子が通話越しでもわかる。
うろたえた明斗の様子が目に浮かぶようだった。
「まだ日にちは決まっていないけど、今度映画に行くことになったんだよ。
本とかスポーツとかの趣味が合うんだよな」
健は唯を映画に誘ったことを明かして、少しだけ優越感を覚える。
『……そういうことか』
ふいに明斗の呟くような声が聞こえて、聞き返せば何でもないという。
そしてそれ以上は特に言葉を交わすこともなく通話は終わった。
尻切れ蜻蛉のようなやり取りに釈然としないものを感じたが、かけ直す気にもなれずにスマートフォンを机に置くとベッドに身体を投げ出した。
バッテリーがだいぶ少なくなっていることに気づいて、充電ケーブルに繋ぎながら唯からの返事を読み返す。
その文面には健の誘いに喜びつつも、一緒に出かけることへためらう心情がしたためられていた。
唯は健が学校ではまったく接点をもたないようにしていることの真意を、ちゃんと理解して感謝もしていた。
二度目の告白の返事はまだもらっていない。
しかし拒絶されていないことは、普段のやり取りでわかっていた。
だからこそ友だちのような距離感で、つかず離れずではなく、離れず離れずのスタンスを保っていたのである。
健は少し考えて、返信の内容を考えた。
本当に気分が乗らないなら、別の機会にしても構わないこと。
ただし映画館は少し離れたところを考えているので、あまり心配をしないで欲しい。
それから、たまには顔を見て色々な話をしたいと思っている。
わがままを言って申し訳ないが、考えてもらいたい。
そのような言葉を綴って送信したが、その日は返事は返ってこなかった。




