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唯を自宅前まで送り届けると、どうやら時間を知らせてあったらしく玄関前には彼女の母親が出て待っていた。
初めて会った緊張もあるが、何より驚いたのはその美貌だった。
大きな瞳と弓形の眉、そしてすっと通った鼻筋に白い肌、ピンク色の唇と、ひとつひとつが唯とよく似ていてなるほどたしかに親子だと納得する。
いや、一応納得はするのだが、どう考えても少し年の離れた姉にしか見えないのである。
ややウェーブがかかった栗色の髪を後ろに流し、身体の線がわかるニットのセーターが艶かしかった。
華奢な肢体に、主張の激しい胸の膨らみが目に毒である。
思わず見惚れた気まずさに、挨拶と二言三言を交わしただけで、健はその場を辞して帰路についたのだった。
来るときは感じなかったが、思った以上の高台にあったようで、これから向かう駅の周辺に立ち並ぶビルや商店などを、眼下に見ることが出来る。
無数に灯された明かりが思いのほか綺麗で、今しがた別れた少女はこの景色のことを知っているだろうかと思った。
来たときとは違い、健の足で歩けば駅まではすぐだった。
改札を抜けてホームに立てば、折りよく目当ての電車が滑り込んできた。
車内の乗客はまばらで、空いた座席に座ると健は、スラックスのポケットからスマートフォンを取り出した。
メール画面にして、先ほど交換したアドレスを呼び出す。
書きたいことはたくさんあったが、まずはおよそ一年ぶりの再会が嬉しかったことを素直に綴った。
そして明日もまた学校で逢いたい、話がしたいとしたためる。
長い文章ではなかったが、まるで携帯電話を覚えたての頃のように、たどたどしく書いたり消したりを繰り返した。
電車は程なく自宅最寄の駅に到着し、席を立ちながら送信ボタンを押した。
駅から自宅へ向かう道で何度も返信を確認するが、一向に着信を知らせるランプは点かなかった。
ちなみに普段なら、拓海や智也をはじめサッカー部で仲のいい数人から届く、SNSのメッセージすらも表示されない。
彼らが健のことを気遣って、連絡を控えているのだろうことは予想がついた。
あるいは面白がって、こちらからの報告を待っているのかもしれなかった。
とりあえず拓海には唯を自宅に送り届けたことを、メールで知らせておくことにした。
簡潔な文章で送れば、すぐに電話がかかってきたが、相手は智也だった。
『もしもし』
通話ボタンを押せば、聞きなれた声が少しくぐもって伝わってくる。
自宅まではもうわずかなのだが、話しながら歩くのは憚られて、目の前にある公園の入り口にあるベンチに腰を下ろした。
「なんだ?」
『なんだじゃないよ、それで……上手くいったのか?』
「……俺は拓海に送ったはずなんだが」
『ん、まあ固いこと言うなよ。拓海はいま手が離せないらしいから、代わりに聞いているんだよ』
「いいけどさ、上手く……っていうか、まぁ、ちゃんと送り届けたし連絡先も聞いた」
『送り狼になったとか?』
「まさか」
『そうか……ところでさ、お前』
「ん?」
急に神妙な声色になった智也に健は訝しむ。
『明日にでも、えっと……ユイちゃんだっけ?の教室とかに逢いに行こうなんて考えてないか?』
「えっ?」
つい声が出たのは智也の問いが、先ほど健が思い描いていたことの、そのままだったからである。
『やっぱりか、お前さ……ちょっとよく考えた方がいいよ。気持ちはわかるけど』
「な、なんだよ……いきなり」
呆れたような嘆息まじりの説諭に、少しムッとして語気を強める。
しかし電話の向こうの声は穏やかなままだ。
『さっきもそうだったけど、ケンはあの子のことになると人が変わるのな。その気持ちはわからないでもないけど、相手のことも少し考えた方がいいんじゃないか?ってことだよ』
「……何が言いたいんだ?」
『何が言いたいか、わからないか?』
「……」
『あの子さ、もう彼氏いるんじゃないの?』
「えっ!?」
智也はまるで、それが当然だというような口調で言い出した。
『だってさ、そうは思わないか?メガネしててもあんなに可愛いんだぜ、むしろあのメガネだって男避けじゃないの?』
「そ、そうかなぁ……」
健は冷静に応えようと努めるが、声の震えは抑えられなかった。
智也の言葉に、真っ先に浮かんだのは従兄弟であり、唯の同級生でもあった明斗のことだ。
『ああ、多分な。って言うか、俺なら絶対に普段は地味にさせて二人のときだけ可愛くさせるわ』
電話の声だけで、智也がいわゆるドヤ顔をしていることが伝わってくる。
認めがたいことではあるが、その言い分には妙な説得力があった。
「そんなこと言ったって、本当に目が悪いかもしれないだろ」
『目が悪いにしたってコンタクトレンズだってあるし、メガネでももう少し似合う可愛いのがあるだろ?
わざわざあんな、ダサい黒縁メガネを普通は掛けないって』
「うーん……」
『それにお前さ、最後に逢ったのは一年前で、最初に逢ったのもその日なんだろ?一目惚れはいいけどさ、あの子のことどれくらい知ってるんだよ?つき合ってるヤツはいないのかとか、ちゃんと訊いたのか?」
「……いや」
電話越しでも健が明らかに落胆したことがわかる。そんな返事だった。
智也は自分で言っておきながら、少し追い込みが過ぎたかなと思う。
しかし普段の健は、どんな女の子が寄ってきても冷静に笑顔で応じていて、決して付け入る隙を与えない。
そんな彼がこれほど入れ込んでいることに、智也も戸惑っていた。そして気がつけば、諫める言葉となっていたのである。
『ま、まぁそれでも連絡先は教えてくれたんだろ?』
「ああ」
『それなら、メールとか電話とかしてちょっとずつ聞き出すんだよ。間違っても学校でいきなり会いに行くなよ?お前が1年の教室に行ってみろ、大騒ぎになって大変なことになるし、あの子は高等部からの編入組なんだから、下手したら学校に居づらくなっちゃうぞ、いいな?』
智也はフォローを入れつつ、健に一番伝えたかったことを一気にまくし立てた。
「お?、おお……そうかな」
『そうだよ、お前さ……どんだけの女子から告られていると思ってるんだよ?それなのに、いきなり入ってきた新参者にメロメロだなんてなったら、すんごい恨みを買うだろ?』
「ああ、わかったよ」
畳みかける智也の言葉に気圧されるように、健は頷く。それが電話の向こうにも伝わったのだろう、智也もホッとした様子でまた明日と言い残すと通話を切った。
通話終了の画面を消したら、自宅からの着信履歴と母からのメッセージが入っていた。
内容は夕飯を待っていたものの、なかなか帰らないので先に食べるというものだった。
健はため息をひとつ吐いて返信しようとするが、もう自宅はほぼ目の前なので思い直す。
スマートフォンをポケットに仕舞い、ベンチから腰を上げる。
そのとき着信音が鳴ってあわてて見れば、また母親からだった。
文字がまったくないそのメッセージは、エビフライのイラストがコロコロと転がっていたのだった。
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その日は晴れのち曇りという予報だったが、夕方近くまで日差しが残ったと思えば急に雲が出て、
帰りのホームルームの頃には弱い雨が降り始めていた。
二ヶ月に一度くらいで当たる日直になった唯は、書き終えた日誌を職員室に届けて昇降口に下りていた。
少し遅くなったのは、もう一人の日直の男子が部活動に行きたそうにしていたので、仕事を全部引き受けたせいだった。
机の並びを綺麗にして、黒板消しをクリーナーにかける。
それから特段のことは何もなかった一日を、日誌にしたためた後ですべての窓を閉めた。
本来なら二人で行うそれらの作業に難しいことはひとつもなかったが、時間はそれなりにかかって、唯が上履きを下駄箱に入れてローファーを出した時間には、昇降口には誰もいなかった。
少し離れた体育館からはボールが弾む音やかけ声が響いてきて、グラウンドからもホイッスルの甲高い音が聞こえてくる。
グラウンドの様子は見えないが、活動しているのは陸上部とサッカー部だろう。
一瞬だけ健のことを思い浮かべるが、何を出来るわけでもなく靴を履き替える。
あれから健とはメールや、時々電話で話をするものの、学校で逢うことはなかった。
理由は言われていないが、人気者の健が地味な自分に気を使ったのだろうと唯は理解している。
昇降口から出て、ひさしのあるピロティに向かうと、先ほどまでは小降りだった雨の量が多くなっていた。
学校から駅までは近いが、それでも傘なしでは厳しいだろうと思われた。
唯は鞄を開けて中から水色の折り畳み傘を取り出した。
それは今朝のこと、美琴から持っていくように言われたものだった。
ニュースの天気予報を見ていた唯は、当初は荷物になるからと渋ったが、こういうときの母の勘は当たることが多くて結局は従ったのである。
「……さすが」
ボソリと呟いて、小さく折り込まれていた布地を開けば、濃いブルーから薄水色にグラディエーションがかかった傘が柔らかく開く。
日傘も兼用できるように、外側にレースがあしらわれているそれは、折りたたみ式にしては大きめだった。
さて帰ろう。と歩き出すところで、ふとピロティの端に立ち、雨宿りをしている人物がいることに気がついた。
見れば唯とは違うデザインの制服を身につけた、十二、三歳くらいの女の子だった。
中等部の子だろうと、すぐに見当がつく。
高等部と中等部の校舎は別だが、専門教科用の教室が集まる建物や図書館、食堂は共用になっていた。
そのため授業で一緒になることはないが、授業間の移動ですれ違うことはあるし、部活動やクラブの一部は中高一緒に行っているものもある。
「駅に行くの?」
唯は少女の後ろ姿に声をかけた。
「えっ、あ……」
少女は急に話しかけられて驚いたのか、肩をびくりと震わせて振り返った。
そして唯の顔を見上げると目を見開いて、口を開けたまま固まった。
「えっと……」
怖がらせてしまったかもしれない。そう思って言いよどむと、少女は惚けたような顔で「織姫さま……」と呟いた。
「えっ?」
とても小さい、口の中での呟きだったため、唯には彼女が何を言ったのかは聞き取れなかった。
思わず問い返せば我に返ったのか、はっとした表情になりすぐに顔を赤くして、すいませんと応えた。
「こっちこそ、突然後ろから声をかけられて驚いたでしょ?ごめんね」
「い、いえ」
緊張したような受け答えに内心で苦笑しながら、ややうつむき加減の少女をこっそり窺う。
艶やかなストレートの黒髪は背中の中ほどまであり、手足の肌はとても白い。ところが顔だけは真っ赤になっていて、まるでリンゴちゃんだなぁと思う。
「急に雨が降っちゃったし、傘が無いのかなって」
唯が少女に声をかけた理由を告げれば、彼女はやはり通り雨の収束を待っていたようだった。
「はい、そうなんですけど……今日はこれから習い事があるので、どうしようかなって思って」
「そうなんだ、降りた駅からもけっこう歩くの?」
「いえ、駅前なので大丈夫です。そこには置き傘もあるので」
話をしてみれば少し大人びた言葉遣いと、丁寧な受け答えに唯は感心する。
「じゃあさ、駅まで一緒に行かない?この傘大きくないから、少し濡れちゃうかもしれないけど……」
「えっ、そんな……いいんですか?」
「うん、いいよ」
「ありがとうございます!」
唯が心のままに出した提案へ、思った以上に素直な反応があって唯は嬉しくなった。
傘を差して身振りで誘えば、少女はおずおずと傍らに並ぶ。
雨脚は少し弱くなったように感じたが、それは今の気分がそうさせたのかもしれなかった。
パラパラと弾ける雨音を聞きながら、ふたりは駅までの道を歩き出したのだった。




