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部屋の外では蝉の鳴き声が続いていた。
考えてみれば、毎年いつから蝉が鳴き始めるのかわからない。
夏のBGMといえば蝉時雨だが、それはいつも知らぬ間に景色を作り、そしていつの間にか秋の虫へと取って代わる。
それはもう幾重にも紡がれた時間の中で、繰り返されてきた行為であるはずなのに、いつも初めて
知る秘密のような気がする。
時刻はもうすぐ夕方の17時に差しかかるが、冷房の効いた部屋から一歩出れば、うだるような暑さが容赦なく身体にまとわりついてくるだろう。
「さて……と、いいよ。目を開けて」
エアコンの冷気をノースリーブの肩に感じながら、少女は伏せていた瞼を上げる。
「はあぁ……」
「どう、可愛いでしょ?」
薄化粧を施された自分の顔を見て言葉にならない吐息をこぼした少女の背後で、少し年上の女性はいたずらっぽく笑った。
「髪って……これ」
鏡に向かって顔を右左に小さく振ると、肩にかかる髪がふわりと揺れる。
「ウィッグよ。これはけっこう良いものだから違和感がないでしょ?」
そう言って背後から手櫛で梳いてみせた。
「これなら誰も唯人くんだって気がつかないよ」
髪を撫でていた手を頬の下へ滑らせて、華奢な顎を掴むと、そのままぐいと斜め後ろへと向かせる。
「み、美鈴さん?」
振り向いた先に美鈴の顔があり、焦った声を上げてしまう。
頬のあたりが熱い、きっと真っ赤になっているだろうと思ったが、目の前の美鈴は気にする風もなく少女……もとい少年に立ち上がるよう促した。
「な、なにか……ひゃっ」
おかしいのか、と言いかけて両肩を掴まれる。その意外な力強さに思わず小さな悲鳴がこぼれた。
「それにしても……ホントに違和感がないよね、その辺の女の子よりずっと女の子らしいというか、何というか……もったいない」
「ううぅ……」
男であるのに女装をさせられ、笑われるならともかくも、惜しまれるというは複雑だった。思わず口からでるのは言葉にならないうめき声である。
「でも唯ちゃんが可愛いのは知っていたし……まぁここまでとはさすがに思わなかったけどね」
唯人を姿見の前に立たせて、前から後ろからとその姿を眺めると、美鈴は納得したように言う。
唯人は昼頃から明斗の姉である美鈴の部屋を訪れて、週末に迫った強制デートの準備をしていた。
美鈴は今年二十歳になる大学生で、両親が持っている別宅マンションに一人暮らしをしている。
実家からは電車で2駅程度のところなので、一人暮らしをする意味があるのかと言えば若干の疑問はあるが、元来奔放な面があるため、本人に任せているらしかった。
ちなみに明斗は部活の練習があるため来られず、女性の一人住まいへ上がり込むことに唯人が難色を示したが、当の美鈴は『唯人くんなら大丈夫』と言ってあっさり承諾したのだった。
……たしかにこの恰好じゃ、男とは見られないよなぁ……。
再び鏡台の椅子に座らせられた唯人はため息を吐いた。
鏡に映る人物は頭のてっぺんからつま先まで、何から何まで可愛らしい少女にしか見えなかった。
デニム地のワンピースを着せられて、肩にかかる髪には向日葵の髪留めが夏の装いを主張している。
美鈴よりも低い身長と華奢な身体は、痩せてはいるものの、薄小麦色の肌に相まって年齢相応の色香を漂わせていた。
衣装の内側は、上は小さなパットを入れて膨らみをもたせ下は水泳用のサポーターを着用している。
胸の膨らみはわずかに思えるが、手足が長く細いためいい塩梅と言えるだろう。
「さて、と……もう少し涼しくなったら、練習に行こうか」
麦茶の入ったグラスを手渡しながら、美鈴は窓の外を窺う。
「れ、練習?」
グラスに口をつけようとした唯人が、その言葉にビクリと反応した。
「当たり前でしょ、靴だって踵があるサンダルにするつもりだし、歩き方、座り方、話し方……とにかく色々と練習しないとね。恥ずかしいかもしれないけど、バレちゃったらもっとイヤでしょ?」
「そ、それは……」
「まずは胸を張って、両膝はきちんと合わせること。じゃないとスカートの中が丸見えよ」
「は、はい!」
美鈴の指導に、慌てて姿勢を正す。
「それから、そうね……大きめのコップは両手で持ったほうがいいかな」
「……両手ですか」
「そうそう、脇をしめてね。うん、いい感じ」
ちょっと肩をすくめるようにしてグラスを持ち、立っている美鈴を見上げる唯人は、それだけで十分に可憐だった。
上目遣いに次の指示を待つ姿に美鈴は軽い倒錯感を覚える。だがそれを顔には出さずに言った。
「じゃあ、そろそろ行こうか。晩ごはん、何がいい?」
・・・・・・・・・・
「だいぶ上達したね、サンダルも慣れた?」
「ええまぁ……少しは」
駅ビルの中にあるショッピングモールは、帰宅途中のスーツ姿と色とりどりの格好をした学生たちが入り乱れて、夕方の静かな喧騒を作り出していた。
宝石店やアクセサリーを扱うブティックの一画にあるカフェのテーブルについて、美鈴はマンションからここまでの総括をした。
美鈴は課題点として、胸にパットを入れているせいか気を抜くと猫背気味になること。それから歩幅が少し大きいことを挙げたが、その他は変には見えないと言った。
「なんだか思ったよりもちゃんと女の子してるから、ちょっと残念」
「そ、そんな……けっこう必死にやっていたんですよ」
「んーでも今だってきっちりぴったり足を揃えてるし、姿勢も良くなったよね。さっきお釣りの小銭を落としたときだって、ちゃんと見えないようにしゃがんで拾っていたじゃない?」
「そ、それはさすがに恥ずかしいですし……」
「そういえば以前もやらされたんだっけ?」
思い出したという顔の美鈴に、唯人はため息をついて頷いた。
「はい……外を歩いたのは初めてですけどね」
「……明斗のせいでごめんね」
美鈴もため息をついて、唯人に詫びた。
「いやいや、美鈴さんだってこんなことのために休日を丸々使っちゃったんですから犠牲者……はちょっと言いすぎかなぁ」
語尾がちょっと舌足らずになって、それが今の容姿に妙に似合うと美鈴は思った。
「そう、ね。私はけっこう楽しめたかな?唯ちゃん可愛いし、なんだか妹が出来たみたいよ」
「い、妹ですか……」
悪気のない言いように唯人は頬をひきつらせたのだった。
・・・・・・・・・・
その日の晩のこと、美鈴は明斗からの電話を受けていた。
「それで……どうするの?」
ひととおりの成果について報告し、いったん話を切ってから美鈴は唐突に尋ねた。
『どうするって?』
「決まってるじゃない、健のことと、唯人くんのことよ。言っておくけど、唯人くん……いや唯ちゃんね、悔しいくらいに可愛くなっちゃたから、たぶん誰が見ても気づかないと思う」
それは「男であることを」ということだ。
『……そうか』
「でもそれだと尚更、健が可哀相だって思うよ。まぁ頼まれて面白がっちゃった私も悪いけど、これってフェアじゃないよ」
『……うん、そうか』
「どうする?今ならまだやめられるんじゃない?」
「…………」
少しの沈黙が受話器ごしに流れる。その後で明斗は小さく息を吐いた。
『わかった、じゃあこうしよう。当日の流れは予定通り、最後に唯人のことはバレないように実は彼女じゃないって話す。頼み込んで来てもらったんだって謝るよ。そうすれば勝負はふりだしに戻る……どう?』
「いいけど、それだと反則負けになるんじゃない?」
『そうかもな……でも、せっかく唯人がつき合ってくれるってことになったし、ちょっと見てみたい気もする』
「……ちょっと、理由はそっち?あんた変な趣味があるんじゃないでしょうね?」
『いやないけど、でもあいつ変に見えないんだろ?』
明斗の問いかけに美鈴は電話を持ったまま大きく頷く。
「まあね、びっくりしたよ。前から可愛い顔で女の子みたいって思ってたけど、想像以上だったわ。
腕とか脚とか、私より細いかもって思うもの」
『あいつ長距離だったからな、ガリガリだろ?』
明斗と唯人は中学でともに陸上部に所属していた。明斗は短距離と走り高跳びで、唯人は長距離だった。
「んーそんなことないよ……まあ見ればわかるか。とにかく、じゃあホントにそうするのね?」
『……ああ』
「唯人くんのことは、絶対にバレないようにしなさいよ」
『わかってる』
「その日は私もいくからね」
『えっ?』
「なによ、当たり前じゃない。女の子初心者を一人で行かせたら可哀相じゃない。ということでパーク代よろしくね」
『えええっ?』
「なによ、今回貸してあげる洋服だってみんな安物じゃないのよ?あとクリーニングとか……本当なら男の子が着た服なんて着たくないし」
『……ゴメン』
言われて気づいたのだろう、明斗は素直に謝った。
「まぁ唯ちゃんは本当に可愛くて、いい匂いで全然男くさくないから、まぁいいけどね」
美鈴はそう言って、明日はまた唯人が来て歩き方や所作の練習をするつもりだと話し、ちゃんと礼をするようにと締めて電話を切った。
・・・・・・・・・・
浴室の天井にある換気扇に消えていく湯気を、ぼんやりと眺めながら唯人はため息をついた。
「なんで、やるなんて言っちゃったんだろうなぁ」
湯船に浸かりながら、昼間のことを思い出す。
コーディネートしてもらった格好で美鈴と一緒に出かけた先では、すれ違う人の男女に関わらずけっこうな視線を浴びた。
最初のうちは女装をしている自分がおかしくて見られているのかと思ったが、美鈴に尋ねたら違うと笑って返された。
『唯ちゃんが可愛いからみんな見てるのよ』と。
たしかに鏡で見た自分の姿は、どこからどう見ても少女……それもとびきり可愛らしい少女だった。
それと美鈴も身長が高くてスタイル抜群な美女である、そんな二人が並んで歩いていれば注目もされるだろう。
男心としては複雑ではあるが。
唯人自身は、自分の容姿を疎ましく思いこそすれ好んではいなかった。
線は細いながらも小学生くらいまでは、男子の中でも大きいほうだったと思う。
それが中学に上がったあたりから不穏な状況になっていった。
まわりはどんどんと身長が伸び、体格も良くなっていく一方で、声変わりすら訪れることはなかったのである。
部活動の陸上も当初は短距離を志望だったものの、瞬発力に乏しくてやむなく長距離へと転向したのだが、ストイックに練習を重ねた結果は補欠だった。
「……はぁ」
浴槽から出て椅子に座ると、目の前には上半身が映るくらいの鏡がある。頭を洗おうと思い、シャンプーに手を伸ばそうとして鏡の中の自分と目が合った。
視線を鏡から自分の指先に移し、腕と肩、そして胸や脚を眺める。
陸上で少し焼けた手足は子どものように細い。それは筋力トレーニングをしても力こぶを生むことはなかった。
つるりとした胸と、すべやかな腹部、そしてまっすぐに伸びる両脚は筋張った様子もなく、あっさりとスカートを履きこなしてしまった。
股間にある、ほんの小さな器官だけが唯人を少年たらしめている。その事実にもう一度ため息をつくと、唯人は今度こそシャンプーのボトルを手に取った。
再び浴槽にその身を沈める。
少し熱めの湯加減が心地いい。
昼間のことをまた思い出して肩をすくめる。
女装をして街を歩くという一種の非日常的行為を振り返って、実のところさほど違和感がなかったことが腹立たしい。
これまでも幾度となく思ったことはある、自分は本当に「男」なのかと。
いや確かに戸籍も肉体的な特徴も一応はれっきとした男性である。
しかし、多少の補正は受けたとはいえ今日は、女の子がより女の子らしく見える類の服装をして誰からも咎められることはなかった。
そして何より、鏡に映った自分の姿を見た瞬間に跳ね上がった鼓動の残り香が、今もわずかに心を乱している気がしていた。
「エラー……か」
どこかで聞いたような、見たような気がすると思いながら呟いて両手で湯をすくい、顔に叩きつける。
小さい頃から女の子みたいだと言われて、時にはからかわれてきた。
それでも大きくなれば男として逞しく大きく、強くなれると信じていた。そう、今日までは……。
頼まれて頷いたこととはいえ、女の子の格好をして、女の子らしい所作を真似て、可愛いと言われて過ごすことに心の奥底で悦びを抱いた自分を、唯人はエラーだとひとりごちる。
男としても女としても中途半端で、どっちつかずな存在……。
長い吐息の後で不意に視野がぼんやりと滲んだ。
それがお湯によるものではないことに気がついて、あわててまた顔を濡らす。
しかしそんな行動もやけに女々しく感じて、また気持ちを下降させることになったが、普段よりも長湯になった唯人を心配した母の声がドア越しに聞こえてきた。
なんだかいけないことを咎められたような心境に一瞬だけ陥った唯人は、あわてて返事をすると、大きな水音を立てて浴槽から身を起こしたのだった。