18
「……そうだったのか」
健の、ため息と一緒にこぼれたような言葉に、唯はコクリと頷いた。
並んで歩く道はだいぶ暗くなっていて、駅から伸びた大通りの街灯が二人の影をおぼろげに伸ばしている。
唯と健は二人並んで、唯の家へ最寄り駅からの道を歩いていた。
一人で帰れると言った唯のことを、どうしても家まで送っていくと健が言い張り、断り切れなかったからである。
ちなみに他のメンバーが皆、そろって用事があるからと言って広場から駅までの間で離れていったのは、二人に気を使ったからに違いなかった。
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ナンパな学生たちから助け出された後に、思わぬところで正体を暴露された唯はいたたまれなくなって
逃げ出したくなった。
だが、健はそれを許してはくれなかった。
唯が動き出すよりも早く、唯の肩を掴んで離そうとはしなかったのである。
それは痛みが出るような強さではなかったが、するりと抜けられるほど軽いものでもない。
俯いていた顔を上げれば、想像していたよりもずっと真剣な顔があって、まっすぐな視線が注がれていた。
強く、それでいて縋るような眼差しに、唯は何も言えなくなった。
しばらく、といっても数秒間ふたりは身じろぎもせずに見つめ合っていたが、そのただならぬ様子に一石を投じたのは、やはり智也だった。
「二人って、もしかして知り合い?」
「ああ」
智也の言葉に健は、金縛りが解けたかのように腕の力を緩めて、そっと離した。
そして改めて、控えめに、窺うように見上げてくる瞳を見つめ返した。
「……久しぶり」
「……はい」
努めて冷静を装いつつ掛けた声はわずかに上ずっていた。
しかし少女は気にする風もなく、あるいは気づかなかったのか、返事をしてそっと目を伏せる。
「えっと、二人の関係を聞いても?」
「同級生の従兄弟なんです」
智也の問いに答えたのは唯だった。
「へぇ、従兄弟の……」
そっけないほどにシンプルな言葉だが、二人を囲むように立っていたメンバーたちは互いに顔を見合わせる。
彼らは皆、その瞬間一様に思った、「どこかで聞いた話」であると。
けれど、そのことには誰も触れることはなく、何となくわかった顔をしてやり過ごす。
「知り合いならよかったよ。もう同じ奴らは寄ってこないと思うけど暗くなってきたし、健が降りる駅まで送るから」
ところが智也は健の肩に腕を回して、いきなりそんなことを言い放った。
「えっ!」
「はっ?」
二人は驚いて智也を見るが、ふざけている雰囲気ではなかった。
「だって知り合いなんだろ?どうせヒマなんだから、いいじゃないか」
「いや、でもそんな……悪いです」
予想外の展開に唯は首をぶんぶんと振るが、智也は応じない。
「悪いかどうかは健が決めるから……いいよな?」
「ええっ……」
「ああ」
有無を言わせぬ智也の言葉にあっさり頷くと、健は自然な動作で唯の背中を押すように駅へと促す。
一瞬だけ、留まるように身体を強ばらせた唯だったが、すぐに観念して従うことにした。
まさかこのような状況で、健との再開を果たすことになろうとは想像もしていなかったが、それでもしつこかったナンパ集団から救い出してくれたことには感謝しているし、何らかの礼もしなくてはと思ってはいた。
しかしその一方で、今の自分の姿について、またあの夏の時のように、冷ややかな目で蔑むように見られるのではないかという怖れもある。
どういうわけか、部員たちがいる前では何も言わずにいてくれたが、最寄り駅までの付き添いで二人きりになったら何を言われるのか。
傍らに並んだ健の腕が肩に少しだけ触れて、反射的に身すくみする。
強く静かな口調でなじられたことを思い出して、みぞおちあたりがゾッと震えた。
だがそれでもついて行かなければならないと思い直して、唯は健の後をちょっとだけ離れて歩き始めた。
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唯と二人きりとなって駅構内を歩き、揃って改札を通る段になっても、健は傍らの少女にかける言葉が見つからなかった。
智也からは密かに「上手くやれ」と言われたが、お互い黙ったままの状況に何をすればいいのかと自問する。
訊きたいことはいくつもある。
なぜあの場にいたのか。
なぜ自分と同じ高校の、しかも下級生の制服を着ているのか。
そしてなぜ、その制服が女子のものなのか。
さらに付け加えれば、その制服が過ぎると言えるほどに似合っていることも。
けれど、それらの問いはまだ一欠けらすら口に出すことが出来なかった。
盗み見るように少女の栗色の髪や、華奢な肩から腕へのラインや、柔らかそうに主張する胸のふくらみにチラチラと視線を泳がせては、いくども問いかけを飲み込んだ。
しかしそんな二人の間にあった静寂を破ったのは唯の方だった。
電車に乗り、空いていた座席に二人で腰を下ろしたところで少女はためらいがちに口を開いた。
「あ、あの……さっきはホントにありがとうございました……急に声をかけられて、しつこくて……」
「いや、たまたまだったけど通りがかって良かったよ」
「……こんな格好して、驚きましたよね」
核心に迫る不意打ちのような言葉に、健は思わず顔ごと唯のほうへ向き直った。
見れば少女の瞳は眼鏡の奥で怯えたように揺れていた。
健はひとつ息をついて、その瞳を見つめ返す。
「話して、くれる?」
恐る恐る尋ねれば、唯は強ばった顔のまま小さくうなずいた。
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「そういえば、いつも行き帰りは一人?」
住宅街の路地に入り、犬の散歩をしていた老人とすれ違ったところで健は、思い出したという感じに唯へ尋ねた。
電車の中と、ここまでの道のりで唯は健に、去年の夏以降のことを話していた。
四人で行ったファンタジーランドから帰った夜に倒れたこと。
気がついたら病院で、本当は女性だったと告げられたこと。
治療の経過の中で、転校し高校1年生からやり直すことにしたこと……。
気恥ずかしい思いと昨夏の罪悪感に、言葉を選びながら語る唯のことを健は、相づちを入れながら静かに聴いてくれた。
不思議なもので、あれほど顔をあわせたくないと思っていたのに、時おり交わす視線はずっと優しくて、安堵を覚えるとともに話をすることが出来て良かったと思った。
「ううん、普段は従姉妹と一緒なので、一人は初めてだったから……助かりました」
今日は祖母のおつかいで帰りに本屋へ寄る用事があったために、一緒ではなかったのだと告げる。
「そっか……」
「あの、本当にもう少しなので……駅からずいぶん離れちゃったし、ここで……」
平坦だった道が、ゆるやかに丘へと向かう坂にさしかかった街灯の下で唯は立ち止まった。
健の家がどこなのかはわからないが、たぶん近くはないだろう。最寄り駅だって違うはずである。
それなのに無理やり帰路をつき合わせてしまったことに後ろめたさを感じていた唯は、丘の上に自宅の明かりを見つけてそう告げた。
健も合わせて歩を止めるが、やや訝しげに少女を見下ろす。
「もう少しって、あとどれくらい?」
「えっと……5分くらいです」
「俺のことは気にしなくていいよ、帰り道はわかるから」
「で、でも……」
「……もしかして、家を知られたくないって思ってる?」
「えっ!?」
健の少しこわばった声に、そんなことは微塵も考えていなかった唯は、思わず大きな声を上げていた。
同時に顔を上げれば、やや不機嫌そうな顔の健と目が合う。
「……ごめん、なさい。そういうつもりはなかったんです……ただ、悪くて」
唯はうなだれるように謝ると、丘の上に建つ一軒を指差して、あれが自宅だと告げた。
「もう見えるくらいまで送ってもらえたから……」
唯が消え入りそうな声で言うと、慌てたような言葉が頭上から降ってきて両肩を掴まれた。
「わ、悪い!……家を知りたいのは俺だった!」
「えっ?」
「あっ!」
健の言葉と、肩に感じた熱に驚いて顔を上げれば、今度は少しばつの悪そうな表情があった。
「……いや、その……」
健は無意識に唯の肩を掴んでいたことに気づき、すぐに手を離す。
それからひとつ、大きく息を吐くと今度はまっすぐに向きなおして口を開いた。
「ずっと……逢いたかったんだ」
一年分の想いを帯びた言葉はまっすぐに少女の胸を突いた。
ただでさえ大きな瞳を、さらに見開いた唯と、視線が交わる。
健は、目がこぼれそうだなと妙に冷静な感想を抱きつつ、今度はそっと唯の両腕に左右の手を添える。
「あの時にひどいことを言ったこと、ずっと謝りたかったし、もっと話がしたかった。
男だって知って……カードの名前も見たし、言われてそうかって思ったけど、どこかで違うはずだと思ってた」
「…………」
「だから君にまた逢うことが出来て……しかも、本当に女の子だったんだって知って、驚いたけど……嬉しかった。
だけど正直に言えば、まだ混乱しているんだ。君は……本当にあのときの”ユイ”だったのかって」
噛みしめるように紡がれた言葉に、唯は返す言葉が見つからなかった。
沈黙を健がどう解釈したのかはわからなかったが、彼はまたひとつ大きく息をついて話し始める。
「いや、違うな……本当はわかっているんだ。さっきあいつらに囲まれていた姿を見た瞬間にわかったよ。
だから……そうだな、ずっと逢いたくて、ずっと好きだった。もう一度あの時のやり直しをさせてほしいんだ」
「え、えっと……」
どこまで送り、送られるという話だったはずが、いきなりの急展開についていけずに、唯は戸惑いの声をあげた。
見上げればまた視線は絡み合って、唯は全身が硬直したように動けなくなった。
強いまなざしはまるで、本当に熱量を持っているかのように少女の全身を奥底から焚きつけるようだった。
「あの……その……」
何かを言わなければいけない。
そう思うのだが顔の火照りと胸の高鳴りで、まるで自分が自分でないみたいだった。
困惑と羞恥に身もだえする少女を目の当たりにして、健はふっと笑みを浮かべた。
そして、すぐでなくていいから。と囁くように言った。
その柔らかい声は一年前の夏をさらに思い起こさせる。
あのとき二人きりになって、明斗との仲を見破られた場面の甘い微笑がそこにはあった。
「ごめん、一年ぶりに逢ったっていうのに、いきなりこんな話しして」
健は唯の腕に添えていた手を離した。
薄れる手指のぬくもりを、どこか惜しむように見上げれば、その表情は街灯の逆光になっていた。
「い、いえ……」
「それで、家まではこの坂を上ればいいの?」
やさしく訊かれて、唯は何度もうなずいた。




