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5月の連休を目前に控えたある週末に、山岸 健はサッカー部で仲の良い友人たちと駅に向かって歩いていた。
夕暮れの道で交わされる会話は、そのほとんどがサッカーと、そして異性に関するものである。
例えば昨日に行われたプロリーグの試合について、得点につながった連係プレーの見事さを一人が語る。
すると反対側でもう一人が、最近つきあい始めた恋人からの着信に応えて、まわりがちょっとうらやましそうにはやし立てるのだった。
「で、ケンは相変わらず『ひまわりの君』の面影を探してるわけだ」
「だから……その言い回しはやめろって」
固まって歩くメンバーたちとは少し離れて歩く健に、キャプテンであり親友でもある影山拓海が声をかけたのは駅前広場にもうすぐ差し掛かろうとしたあたりだった。
拓海の意味深な言葉に健は露骨に嫌そうな顔をする。
もともと彫りが深く端正な顔立ちのため、不機嫌な表情になると近寄りがたい雰囲気になるが、普段から一緒にいる仲間たちにしてみればいつものことである。
「いい加減に他の女の子を見てもいいんじゃないか?親戚の同級生、だっけ?けっきょく連絡先も聞けなかったんだろ」
拓海を含めて数人は、去年の夏にあった健と唯人の邂逅について知っている。
親戚の友達という女の子に一目惚れをしてしまい、意を決して告白したものの断られたというものであり、少女の持ち物にひまわりが飾られていたことから、少女は古典になぞらえて『ひまわりの君』と呼ばれるようになっていた。
当然だが相手が実は男性だったということは伏せてある。
健にとってみれば恋情の吐露を同性にしてしまったというのは不本意なことであったし、女装姿の唯人は誰が見てもわからないくらいに可憐で美しかった。
だからだろうか、いまだに健は篠崎唯人という人物が男性ということに確信を持つことが出来ないでいた。
むしろ自分からの告白を断るために、男だと偽ったのではないかと考えるくらいに。
「……別にいいだろ、もともと彼女とか興味なかったし」
「まあ、確かに誰かとつきあうとか興味とか、おまえの勝手だけどさ」
健がムスッと言い返せばもう一人、セカンドトップの中西智也が健の肩に腕を回して、まあまあと宥めかける。
「そもそもサッカー部で……というか学年、いや下手すりゃ学校で一番モテるはずの男がさ、何を一年近く悶々としているのかって、まわりが気にするだろうが」
「モテたいなんて思ってない」
「そりゃ嫌みか?だったら普段まわりにいる女の子たちへの態度も考えろよ。優しくするだけして、告白しても断られるなんて可哀相なだけだろ」
智也は健とは小学生のクラブチーム時代からの僚友である。
つきあいも長いし、健には及ばないものの高校二年の時点でいくつかのプロチームから声がかかるほどの実力は持っている。
だから笑顔を見せながらも歯に衣着せぬ物言いを抑えようとはしなかった。
「…………」
健は智也の言葉に一瞬、口を開きかけたが何も言わなかった。
ただ目をそらしてカバンを持ち替えると、いつの間にか止まっていた歩みをまた始めた。
他の仲間たちもそれ以上は話題にふれないことにして、その後をついていく。
たしかに智也の言っていることは一理ある、と健は内心で認めざるを得なかった。
わりと小さい頃から女の子からの受けは良いほうだったと思う。
運動は得意で、運動会では代表リレーの選手に選ばれなかったことはなかったし、球技もサッカーだけでなく他の種目を難しいと感じたこともない。
親の意向で早い時期から家庭教師がいて、だからというわけでもないが勉強も苦手ではない。
歳の離れた姉が二人いて、女の子の扱い、どうしたら女の子が喜ぶのか、嫌がるのかということを英才教育と言えるくらいに教え込まれた。
そんな経緯があったからだろうか、思春期を迎える頃に健は異性を恋愛対象として見ることが出来なくなっていた。
もちろん彼の名誉のために言葉を加えるとするならば、だからといって同性を対象としているわけでもない。
つまり恋愛感情というものが、ひどく希薄に育ってしまった少年だったというわけである。
明斗との恋人作り競争にしてみても、ただつきあうだけの相手であるなら難しくはなかっただろう。
しかし本当に気持ちを寄せて想える『彼女』というものに、彼はまだ出逢っていなかった。
そう、あの夏の日までは。
篠崎唯という少女を目の当たりにしたとき、健は後頭部をハンマーか何かで殴られたような気分になった。
一瞬にして目が釘付けになり、意識はすべて彼女の言動、行動に向けられた。
ふとした指先のしぐさにときめいて、従兄弟に見せる笑顔にやるせない気持ちをかかえた。
そんなふうに感情を揺さぶられながら、恋人同士だという二人から目を離せないでいると、なぜだか次第にその二人の関係に疑問を感じるようになっていったのである。
最初の違和感は、四人で乗ったベネチアンカヌーが他のカヌーと接触しそうになった場面だっただろうか。
ぐらりと揺れた船体に、バランスを崩して座席から投げ出されそうになった唯を、明斗が肩をつかんで止めたのだ。
そのときに二人の間に流れたのは、いわゆる恋人同士が醸し出す甘い雰囲気ではなく、安堵と恥じらい。そして困惑だった。
それからも、基本的には近い二人の間隔はしかし、どこか余所余所しいような、薄布で距てたような印象があった。
観察を続けるうちに違和感はやがて確信へと変わっていく。
そして遂に唯と二人きりになる好機を得た健は、普段であれば考えられないほどに舞い上がった。
結局、彼にとって人生初の告白は思わぬ形で終わりを迎えたわけだが、それでもまだ心のどこかで拾ったパスケースのことを信じることができない自分がいた。
あれから学校にいるときや街を歩いているときも、ふとした時にあの夏の日を思い出す。
その度に、麦わら帽子のつばの影からのぞく大きな瞳や、汗で頬に張りついた栗色の髪の様子。
飲み物を渡すときに伸ばしてきた華奢な腕と細い手先の具合、そしてふわりと感じた残り香が、幾たびも蘇ってくるのだった。
昨年の夏から今までに同級生、他学年また他校の女子生徒から数え切れないほどに想いを告げられてきた。
しかし誰と会い、誰と言葉を交わしても心が動き、感情が揺さぶられることはなかった。
いつも比べてしまう。そう、たったひとりの人物と……それが叶わぬ望みだとはわかってはいても。
惑いつつ、それでも求めずにはいられない苦しみを胸に抱いて、表面上は平静を装って彼は毎日をすごしてきた。
学校にいるときはまだいい。サッカーをやっているときは、没頭できるので一番気が紛れた。
かえって集中力が増したのか、プレーの質が上がったと言われたのは皮肉にすら思えたほどである。
一緒に歩く同僚たちのことは放ったまま、そんなこと考えて駅前にやってくれば、待ち合わせに使われる広場の一角で言い争うような声が聞こえてきた。
興味はないものの、ふと見れば同じ学校の制服を着た女子生徒が、三人の大学生風の男たちに絡まれていた。
「だからさ、ちょっとそこのカラオケに行こうよ。おごるからさ」
「クルマもあるしドライブだっていいよ」
「……けっこうです、そこをどいてください!」
「そんなこと言わないで、おうちに帰るには早いでしょ」
大学生風の三人は女子生徒を取り囲むようにして立ち、一見すると優しそうな顔と声色で同伴を迫っていた。
少女は髪色こそ栗毛だが、制服の着こなし方から真面目そうな印象を受ける。
うつむいていて表情はわからないが、メガネをかけて胸に鞄を抱いたまま身体を揺らし包囲網からの逃げ道を窺っているようだった。
「そんな怖がらないでさ、一緒に楽しいところに行こうよ」
後ずさりしかけた少女の腕を一人が逃がさないとばかりにつかめば、ひっ、小さな悲鳴が上がる。
動けなくなった女子生徒の怯える横顔が、揺れた栗色の髪からのぞいた瞬間に、健は何かを思うよりも前にその場へ歩み寄った。
そしてためらうことなく、少女の腕をつかんだ男の手首を力任せに握り締める。
「んな、痛てぇっ!」
かなりの力だったのだろう、手首の関節に与えられた衝撃に驚いて男は少女から手を離した。
「だ、誰だてめえ……っ?」
痛む手首を反対の手で押さえて、いきなり現れた人物を睨めば驚きの声を上げた。
なぜならそこに立っていたのは制服姿でも高い身長と、鍛えた肉体を伺い知ることが出来る青年だったのである。
健は傍らで女子生徒が息を呑む様子を感じ、そのまま庇うような立ち位置になり三人を見回す。
そのまま、予期せぬ出来事に虚をつかれた様子の男たちに向かい、静かに口を開いた。
「お兄さんたち、人の彼女にちょっかいをかけないでもらえますかね」
言葉とともに右足をずいと前に踏み出せば、180センチを超える長身に気圧されて、三人は一様にじりりと後ずさる。
「なにっ?」
「いやそんな……彼女だって?」
「お、おい……」
男たちは互いに顔を見合わせる。
そして自分たちの背後に目の前の二人と同じ制服の男子生徒が五人いて、いつの間にか囲まれていることに気がついた。
並び立つ生徒たちもまた一様にスポーツで鍛えた様子があり、日焼けの具合と肩掛けバッグのブランドなどからサッカーかフットサル仲間であることが窺えた。
「そんなに遊びたければ、俺たちが相手をしてあげようか」
部員の一人が嘲るように言えば、とたんに剣呑な雰囲気が高まる。
だが取り囲まれて立場が逆転した状況となり、三人から先ほどの余裕は失われていた。
そもそも彼らは週末の駅前広場で、たまたま見かけた女子生徒に声をかけただけである。
そんなことは彼らにしてみればわりと日常的なことで、声をかけた自分たちと同じように、声をかけられることを「待っている」女の子は案外と多いことを知っていた。
わりと軽いノリでついてくる子もたまにはいたし、断られても気にしないくらいの度量はあるつもりだった。
だから、ちょっと長めのスカートを揺らして姿勢良く歩く少女に照準を合わせたときも、最初は言葉遊びと真面目そうな子を多少冷やかす程度と思っていた。
しかし声を掛けて振り向いたその顔を正面から捉えたときに、三人はそれぞれに衝撃的なほど気持ちの高ぶりを覚えたのである。
一人は眼鏡ごしに目が合って、大きな瞳に吸い込まれそうになり。
もう一人は染みひとつない白い肌と、柔らかそうな唇にドキリとし。
そしてもう一人は、制服の上からもわかるメリハリのある身体つきに視線を逸らすことが出来なくなった。
何よりも三人が三人ともに、今まで出会ったどんな女性よりも美しいと確信していた。
もはや本能的に逃すまいという意識が働いて、気がつけば互いに牽制し合いながら少女を取り囲んでいたのだった。
「い、いや……」
「お、俺たちはそ、そうだ道を聞いていたんだよ!」
「そそそ、そんなつもりはなかったんだ!」
人数的にも体格的にも敵わないと悟った三人は、それぞれに言い訳を口にする。
「なら、もう用はないですよね。バイバイってことで」
拓海がそう言って包囲網を崩せば、そそくさと去っていったのである。
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「大丈夫だった?」
健が傍らに立ちつくしたままの少女に声をかければ、肩がビクリと跳ねた。
「は、はい……」
うつむいたまま返す声は少し震えていた。
身長差があるため見下ろすようにしてみれば、華奢な肩と胸のふくらみが目に入ってくる。
首元を彩るタイの色は濃い緑で、一年生であることがわかった。
返事のトーンで健は、彼女がどうやら自分のことを知っているらしいという確証を得ていた。
自分が学内でそれなりに(本当は一番の)有名人であることは自覚している。だから、校内でも会えばまるで芸能人のような対応をされることもある。
もちろん憧れや恋情を宿した目で見られることも珍しいことではなかった。
「一年生?」
「……はい」
だが少女は、健を目の前にしても一向に顔を上げようとせずにいて、それがやけに異質なものに映ったのである。
「危ないところだったね、えっと一年生の……何さん?」
健が少女に名前を尋ねようとしたところで、智也が横やりを入れてきた。
「あ、ありがとうございました!いえ、名乗るような者では……」
名を問われた少女は焦ったように両手を胸の前で、いやいやと激しく揺らした。
「そんなことないと思うけど……まあいいか。それよりケーン、なんだよさっきの『ヒトの彼女』って。この子すっごい動揺しちゃってるぞ」
智也は少女から一旦目を離し、健に含み笑いを向けて言った。
「えっ、俺そんなこと言ったかな」
先ほどのやりとりは半ば無意識であったため、健はきょとんとする。言われてみればそんなことを口走ったかもしれない。
なぜだろう、この少女を視覚に映してから意識を根こそぎ持っていかれたような感覚があった。
そうでなければ三人に絡まれていたところへ、真っ先に向かうこともなかっただろうし、今現在もずっとうつむいたままのかんばせを覗き見たくて仕方がないのである。
「言ったよ……ったく、これだから天然のタラシ体質は困る」
健の間の抜けた返答に智也は肩をすくめてぼやいたが、他のメンバーも遠からずと思っているらしい。
誰も咎めることはなかった。
「じゃ、まぁそんなわけで自己紹介をしてもらおうかな。ね、篠崎唯さん」
「「えっ」」
さらりと言った智也の言葉に反応したのは当事者である唯と、その傍らにいた健の二人だった。




