12
「今夜はお祝いね、何が食べたい?」
帰りの電車の中で美琴は隣に座る唯に話しかけた。
「うーん、悩むよ」
もう態度も口調もいつものものに戻った美琴に、唯も普段どおりに返す。
「お母さんのササミチーズカツが食べたい……かな、しばらく食べてないし」
「そうね、じゃあママ特製ササミチーズカツにしましょう!」
呼び方をさりげなく軌道修正しつつ夕飯の方針を決めると、買っていくものを指折り挙げていく。
「えーと、まずパン粉が無かったから……あら、メールだわ」
そこへ美琴のスマートフォンが震えて、メールの着信を静かに告げた。
「誰から?」
「おばあちゃんよ。えっと、あら……今夜はお寿司だって」
操作をしてメールの内容を確認すると、小さく息をついた。
美琴の母も元々は大地主の娘である。基本的には穏やかで優しいが、いったん決めたことはおいそれとは覆さないし、自分が良いと思うことはすべからく正しいと考えるふしがあった。
そんな母親のことを美琴は時々、ため息でもって評することがあったが、唯は祖母の一本気で筋の通った生き方が好きだった。
祖母も幼い頃から唯人のことを孫の中で一番可愛がり、孫娘となった今では花嫁修業と称して何かと世話を焼きたがる。
おそらく今夜の夕餉も、さぞや高名な店から運ばれてくるだろうと予想されて、唯はクスリと笑う。
「もう、何笑っているのよ……きっとまた高いお寿司を食べきれないくらい頼んだんだろうなぁ」
唯が笑うのを目ざとく見つけて美琴はぼやく。
やはり母子だけあって、この後の展開も予想がつくのである。
「嬉しいけどチーズカツも食べたかったな」
「そうね、生ものばかりじゃ寂しいから駅前で少しお惣菜を買っていこうか?」
「うん、賛成!」
美琴の提案に唯は嬉しそうに何度もうなずく。じゃあそうしましょうと言って、駅前にあるスーパーに寄ることになった。
その店には地元の精肉店が入っており、手作りの惣菜が人気だった。
「今日は入学式だからあの人も帰ってくるし、修人も来るはずだからね」
美琴はまたスマートフォンを操作して、他にも届いていたメールの確認をしていく。
「兄さんが?」
唯は驚いたように聞き返す。
修人は唯と6つ違いの兄である。
年は離れていたが二人は仲が良かった。それは主に修人が唯のことを構いたがり、唯もそれを嫌がらないというものだったが。
スポーツ万能で成績優秀な兄は昨年大学を卒業して大手商社に入り、都心の独身寮に入っていた。
なかなかに忙しいようで父の琢磨とは時々会っているようだったが、距離のあるこちらの家には年末年始に顔を出したくらいだった。
「ええ、唯ちゃんの制服姿を見なくちゃ!って電話で意気込んでいたわよ」
「えっ……ははは」
母の言葉に唯は一瞬絶句して、乾いた笑いをこぼす。
兄の弟への猫可愛がりは、妹になってより強くなっていたからである。
「ホント、昔からあの子は唯ちゃんのことをずっと気にかけていたものね。まぁ一人しかいない兄弟だから当然と言えばそうだろうけど」
電車が少し揺れて、ふたりはそのまま肩を寄せ合う。
車内は人が少なくて空席も多かった。
「……うん」
唯の脳裏に浮かぶのは、いつも自分に向けられる優しい眼差しと、名前を呼んだときに返ってくる甘い笑顔だった。
父親に似てスラリと背が高く、美形の両親から受け継いだ端正な顔立ちは小さい頃からまわりの女の子たちに引っ張りだこで、上級生や下級生はたまたその家族、とくに母親から人気があった。
少年サッカーからはじまり中学、高校とサッカー部に所属していたときはファンがいて、追っかけもいたという話だった。
容姿端麗で優秀、運動神経もいいなどという人物は異性からの人気は高くても同性からは疎ましがられると思いがちだが、なぜか修人は男友達もたくさんいて、家にもよく連れてきていた。
友人たちが家に来たときは唯人も一緒に遊ぶことが多く、よく可愛がられた。
そんな兄だから学校での評判ももちろん高くて、唯人が中学に入るときにある教師から「君があの修人くんのいも……いや弟か」と感慨深げに言われたことを思い出した。
「そういえばね、修人ってばいつだったかユイちゃんのことを本当は女の子なんじゃないかって言い出したことがあるのよ」
「えっ」
不意に思い出したという母の言葉に、唯は驚いて顔を見返した。
「それっていつ?」
「うーん、たしか修人が中学生のときだったから唯ちゃんは7歳、8歳くらい?」
「へええぇ」
唯は思わず感嘆のため息をこぼして、中学生の兄の面影を思い浮かべる。
「そのときも私はそんなこと全然考えてもみなかったから、思い違いでしょって言ったけど……今にして思えば修人が唯ちゃんのことを、誰よりもちゃんと見ていたってことになるのよね」
美琴の感心したような口ぶりに、唯はただ頷くしかなかった。
小さい頃はどちらかと言えば背も大きくて、同級生の男子たちと一緒にいても大して違いを感じたことはなかったし、身体を動かすことが好きな兄といつも一緒にいたから、どちらかと言えばやんちゃな子どもだったと思う。
それなのに、どこを見て判断したのかはわからないが、本人も気づかないままの本質を見抜いていたことに純粋に驚いた。
そしてきっと兄はそれだけ自分のことを大切に思い、見てくれたのだと実感して胸がじんわりと暖かくなる。
実を言うと唯が女性としての生活を始めてからの兄は過干渉、過保護なほどに妹の行動を案じるようになり、正直に言ってうんざりもしていた。
そのため時には照れもあって、つれない態度を取ったこともあった。
しかし改めて知らされた兄の真実に唯は、今日はちゃんと接することが出来そうだと思った。
ふと視線を感じて傍らを見れば、ここにも変わらぬ笑顔があった。
唯は何となく母が言いたいことがわかって、ふれあっていた肩をさらにもたれかける。
するとそのまま囲われるように抱きしめられて、しばらく美琴の体温と柔らかさを感じていたのだった。
・・・・・・・・・・
「うーん、こうやってみるとホント母さんの若い頃によく似てるな」
日本酒をちびりと口に含んで、咀嚼するように飲んでから父の琢磨は目を細めて言った。
「なんて言うかさ、ザ・美少女って感じだよなぁ、うん」
琢磨の向かいに座る修人は、空になったお猪口に徳利を差し出しつつ、何度も頷いている。
「ねぇ、もう見るの終わりにしてよ……恥ずかしいよ」
デジタルビデオカメラを居間の大型テレビにつないで映された入学式前後の動画は、無限ループのように再生が繰り返されていた。
最初のうちこそおとなしく父兄の評価、感想を聞いていたものの、さすがに5回、6回と繰り返されると笑顔も引きつってくる。
しかし二人はまったく飽きることなく娘(妹)を肴にして杯を重ねていた。
二人は仕事を終えてから唯たちのいる家に向かったため夕食時には間に合わず、少し遅くなった晩酌にパジャマ姿の唯が付き合っている。
美琴はキッチンにいて酒のつまみを作っており、祖母は少し前に寝室へ収まっていた。
「いやいやせっかくの入学式だったっていうのに仕事で行けなかったんだぞ?これくらい見てもいいじゃないか」
「そうだぞユイ、しかも母さんだって久しぶりの正装じゃないか。その場に行けなかったのがどんなに無念か……」
二人は娘(妹)の可愛い抗議に、ブツブツと愚痴をこぼすように応える。そして同時に杯をあおり、似たもの親子だなぁと唯は実感した。
また琢磨の台詞から、もう結婚して二十年以上だというのに、相変わらず母一筋の父に呆れつつも嬉しくなる。
両親は唯が物心つく頃からこれまで、いわゆる夫婦喧嘩というものをしたことがなかった。
時にはどちらかが何かのきっかけで不機嫌になり、冷戦状態のようになることはあった。
だがそれも殆どが翌日には何事もなかったかのように元に戻っているのだった。
仲の良い両親が唯は好きだった。
そして、母親似の自分には昔から甘かった父のことが唯は好きだった。
自分が女性として生きることを一番喜んだのも、もしかしたら琢磨だったかもしれない。
もっともすぐ後に、嫁に出したくない。と頭を抱えていたのだったが。
「お母さんね、うん。やっぱりすごく注目をされてたよ」
「ぬあにっ?……ごほごほっ!」
唯の言葉に琢磨が声をあげて、盛大にむせた。
「あらあら、大丈夫?はいお茶」
そこへキッチンから戻ってきた美琴がテーブルに大皿を置いて、手元にあった湯呑を差し出す。
「ごほっ……ああ、もう大丈夫だ。それより本当かい、今の話は?」
「何が?」
自分の椅子に座り、きょとんとした顔の妻に琢磨は問い直す。
「だから今日、君に色目を使った輩がたくさんいたっていう話だよ!」
父の言葉を聞いて唯は、ああそうだったと自分の失態に気づく。
妻一筋の琢磨は、その端正な容姿からは想像もできないくらいに嫉妬深かったのである。
「え、そうなの?」
「そんなこと、ひとことも言ってないよ!」
美琴の問いに唯も声を上げる。
「サクラ色のスーツが綺麗でまわりの子もみんな、素敵だって言ってたって話だよ」
「ふふ、そう?」
娘の言葉に顔をほころばせる美鈴とは対照的に、琢磨は気分が悪い!と言って修人にお猪口を突き出していた。
その向かいには苦笑して唯に「気をつけろよ」と目で合図しつつ酒を注ぐ兄がいる。
唯はおどけて肩をすくめるが、久しぶりにそろった家族の様子が以前と少しも変わらないことに安堵する自分に気づく。
そして改めて、半年前の自分がした決心を家族がどれだけ後押ししてくれたのかを思い知るのだった。
・・・・・・・・・・
夜も更けて皆が寝静まった頃、修人は寝間着の肩にタオルをかけてリビングのソファに座っていた。
先ほどビデオカメラとつなげていたテレビは、今は深夜枠の古い映画を流している。
父と差し向かいで呑んだ修人は、ビールから始まり日本酒を一本空けて、次はブランデーに……というところで意識を失った。
気がつくと二人掛けのソファに横になっていて、毛布が掛けられていた。
唯は入学式で疲れて先に寝ると言っていたので、母が気をきかせてくれたのだろうと思った。
目を覚ましたのは夜中の1時をまわったくらいだったが、顔を洗おうと風呂場に向かったところ、まだ湯船はタイマーで保温されていた。
修人はこれも母の配慮だなと感じ、せっかくだからと夜半の風呂に入ることにした。
昔から美琴はこういった心配りに敏い人物で、そのことに修人は高校の受験勉強をしていた時に気づいた。
夜遅くまで机に向かう息子への差し入れのタイミングがあまりに的確で、自分の母親は予知能力者ではないかと疑ったほどである。
風呂から上がった修人は、頭を拭いたタオルを肩にかけてぼんやりとテレビを眺める。
コメディ映画のようだったが、20年以上前の洋画だろうか。古いうえに外国人の笑いのツボがわからないため、面白いかどうかの判断はつかなかった。
冷蔵庫から麦茶と、キッチンテーブルに置かれていた草餅を持ってきてまたソファに身体を預ける。
なんとなく小腹が空いたような気がしていたし、草餅はつぶあんで修人の好物だった。
一口で半分になった三日月状の餅を見て、そういえば唯はこしあんが好きだったな。と呟く。
もうすでに夢の中の住人であろう妹のことを思い浮かべて、ふっと息をついた。
弟だった唯人が妹の唯になって、半年が過ぎていた。
本当の性別が明らかになって当初は、家族の誰もが唯との接し方に戸惑い、言葉のかけ方ひとつも思い悩むほどに、腫れ物扱いだった。
しかし意外なことに本人はわりとあっさりとしたもので、適合手術とそれに伴うリハビリには泣き言ひとつこぼさなかったし、美琴が用意した女性用の衣服類もさほど抵抗なく身につけていた。
家族への接し方もそれまでと大きく変わることはなく、ただ一人称が「おれ」からいつの間にか「わたし」になっていたのである。
心情的な変化は肉体にも作用するようで、半年の間に華奢な少年のようであった身体は、母親に似て山谷のあるものになっていった。
ところが、心情は変わっても感覚はまだどこか唯人の名残りがあるらしく、いまだに風呂上りではバスタオル一枚で家の中を歩き回るし
(一応、隠してはいるが)、修人が雑誌や新聞広告を座って読んでいれば背後から抱きつくようにのぞき込んできて、柔らかいやらいい匂いがするやらで、兄妹のはずなのにドギマギしている自分がいた。
唯自身は小さい頃からの習慣そのままなのだが、その無防備すぎる姿態に兄ながら心乱される。
それもおそらく戸惑いのひとつなのだろうと、無理矢理に自分自身を納得させてはいるのだが。
それにしても、と半分残った草餅を口に入れて修人は考える。
兄弟として過ごしていたときは軽口で『彼女作れよ』だなんて言ったこともあるが、兄の目から見ても深窓の美少女と相成ってしまった妹に『彼氏を作れ』だなんて口が裂けても言えない。いや、もし彼氏だなどと男を連れて来たら、そいつの口を裂いてしまうかもしれない。
一瞬、そんな場面を思い浮かべて、胸の内に熱いものがこみ上げてくる。
そして、それが嫉妬まじりの怒りだと理解して、愕然としてしまった。
「……ふぅ」
グラスに残った麦茶を飲み干して、深いため息を落とす。
やれやれ自分は、容姿以外にもやっかいなところを父親に似てしまったらしい。内心でもうひとつため息が出る。
「まあ、仕方がないよな」
修人は誰に言うでもなく、呟く。
考えてみれば弟であった時分も、ずいぶんと唯人のことは気にかけてきた。
それはただ一人の弟だからというだけでなく、やはり唯人は小さいころから「可愛い」姿をしていたし、存在そのものが愛らしいと言っても修人にとっては言い過ぎではなかった。
それが女の子、妹となれば愛おしさも、また心配も倍増するのは自明の理であろう。
「うん、仕方ない」
自分で自分を納得させるように言うと、修人は立ち上がる。
キッチンのシンクに空になったグラスを置き、明かりを消した。
風呂の給湯器も火が落ちていることを確かめて、修人のために用意された客間へと向かう。
明日は休みを取ったためのんびり寝ていることも出来るが、学校がある唯の顔と制服姿を画面ではなくちゃんと見たいと思った。
翌朝のことに思いを馳せれば、我知らず口角が上がる。
目覚まし時計はバッグに入れて持って来ていたはずだった。
もぞもぞと客間用の布団に潜り込めば、陽を浴びた風の香りがしてすぐに意識は薄れた。
こうしてブラコン改めシスコン兄の夜は、更けていったのである。




