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「えーと、これで大丈夫?おかしくない?」
姿見を前に腕を伸ばしたり、背中のほうを振り向いたりしながら少女は、背後にいる同い年くらいの少女に尋ねる。
「うんうん、可愛いよ」
その問いかけに腕組して立つ少女は、小刻みに頷いて声をかけた。
「可愛すぎてちょっと危険かもね」
「えっ……それはないでしょ」
「いーや、大有りだよ。小さい頃から可愛いって思ってたけど……男子校でよく平気だったよね」
「なにが?」
含むような言葉に、鏡のなかで首をかしげる。
「ううん、何でもない。それよりさ、この前言ってたじゃない?知り合いはいないと思うけど、ちょっと気になるって」
「う、うん」
「それで考えたんだけど、これ掛けたらどうかな?」
そう言って手渡してきたのは、黒ぶちの眼鏡だった。
「……メガネ?」
「そう、伊達メガネだけどね。ね、掛けてみてよ」
受け取ってツルのところを開いたり閉じたりしているとそう言われ、頷いて掛けてみた。
「どう……かな?」
細身のプラフレームが少女の大きな瞳にわずかな翳りを与える。
長いまつげが素通しレンズに触れそうで、背後の少女はため息をついた。
「はぁ、やっぱダメか……」
「えっ?」
思いがけない落胆の様子に、思わず振り返る。だがかけられた言葉はもっと予想外だった。
「ちょっと離れればカモフラージュになるけど、やっぱりこんなメガネじゃ隠し切れないよホント、悔しいくらいの美少女ぶりだよねぇ」
「は、ははは……」
しみじみと言われてもどうしようもない、ただ苦笑いをするしかなかった。
・・・・・・・・・・・
「ボクのことを可愛いって言うけど、亜紀ちゃんだって可愛いよ?」
玄関で革靴を履きながらそう言うと、ドアに手をかけて立つ少女はまあねと応えつつまた声をかける。
「しゃがむときは気をつけてね、前から見えちゃうから」
「う、うん」
ドアを開けて外に出る
「わたしが可愛いのはもちろん当然だけどね、ユイちゃんの場合は何ていうのかな……別格?」
「そ……そんなこと」
「あるよ、男の子の格好だったときから華奢で可憐で。どうして女の子じゃないんだろうって言ってたくらいだしね」
亜紀は肩をすくめて笑顔を向ける。そこに二人の背後から声がかかった。
「もう行くの?大丈夫……って、それどうしたの?」
玄関にやってきたのは唯人の母親である美琴だった。
「あ、うん……亜紀ちゃんが用意してくれたんだよ」
振り返れば驚いた顔の母に、自分が伊達眼鏡をしていることを思い出して経緯を話した。
「そうなの、まぁ……亜紀ちゃんありがとね」
靴を履くときに俯いてずれたフレームを直す唯人を見ながら、美琴は亜紀に礼を言った。
「えへっ、でもちょっともったいないですよね。これでも十二分に可愛いのが悔しいけど」
亜紀はそう応えて、傍らに並んだ少女のスカートの裾をつまむ。
「それにこの長めのスカートと相まって、深窓のご令嬢っぽい雰囲気がビンビンと!」
「なっ、なにそれ……」
茶化すような亜紀の言葉に絶句するが、それも自分の緊張を和らげるためだとわかっていた。
「え……っと、母さんの準備はもういいの?」
「ええ、もういつでも出られるわよ」
「じゃあちょっと早いけど、もう行きましょ。混む前にね」
・・・・・・・・・・・
「美琴さんのスーツ素敵……」
歩き始めてすぐに亜紀は感嘆の声を上げた。
「あら、ありがと……でもちょっと派手じゃないかしら?」
歩みは止めずに自分着ている桜色の上着や、レースが編みこまれたストッキングをまとった足先を見やると、二人の少女はそろって首を振った。
「普通の人が着たら派手に見えるかもしれないけど、美琴さんだと全然……はぁ、やっぱり素材って大事」
ふうとため息をつく少女に、美琴はクスリと笑みをこぼす。そんな仕草も上品でありながら、どこか妖艶な色香があった。
「そんなふうに言ってもらえると頑張っておめかしした甲斐があるわ」
「ホント、唯ちゃんは美琴さんと琢磨おじさんの良いところをすっかり受け継いでいるよね」
「そ、そうかな……」
不意に振られる会話に返す言葉は浮かばずに、少女はかけ慣れないメガネのつるをいじった。
ちなみに琢磨とは唯人の父の名である。
美琴は息子と歩いていて恋人と間違えられる美貌の女性だが、父の琢磨も180センチ余りある身長と、彫りの深い精悍な顔つきの男性だった。
二人は若い頃から美男美女のカップルで、並んで歩くとドラマや映画の撮影かと勘違いをされたこともあった。
しばらく歩くと駅に出て、そこから二つ目の駅を降りるとすぐに目的の場所がある。
電車の中でも見かけたが、改札を抜けると同じ制服姿を多く目にするようになった。
そこには唯人と同じように真新しい制服を、着ているというよりは着させられているといった雰囲気の少年や少女が、父親や母親を伴って歩いていた。
三人もその流れに乗るように、同じほうへ進む。
今日は高校の入学式だった。
唯人の本来の性別が女性であることが明らかになった高校一年の夏から、すでに半年あまりが経っていた。
あれから唯人はさほど間を置くことなく、女性として生きることを決めた。
戸籍は変更の手続きを行って、名前も「唯人」から「唯」に変えることになった。
それまで自分が男性であることに疑問を持ったことも、否定したこともないけれど、それでも違和感を感じていたことは紛れもない事実であった。
だから医者の説明を聞いたとき、自分でも驚くほどに冷静だったのはおそらく、どこかで自分の身体が自身の心に違和感というシグナルを送っていたのだと納得したからである。
それからは検査や手術、リハビリと投薬を経て少しずつ唯人は少女になっていった。
それまで通っていた学校は男子校であったため、理由を話して転学扱いの退学の手続きをした。
当初は家からそう遠くないところに共学と女子校の高校があり、そこへ編入する案も出たが、近いということで中学の同級生も多く、女生徒として転入することに唯人は難色を訴えた。
両親と相談した中で、隣の県にある母の実家へ移り、そこから通える学校を検討することにした。
するとちょうど同い年の従姉妹が通う私立高校が浮上したため、事情を説明すると編入が可能になったのだが、その時点ですでに初秋にさしかかっており、また折り悪く投薬されたホルモン剤が合わずに唯は体調を崩しがちになっていた。
そのため学年末までの残り数ヶ月を無理せず、療養と準備に充てることにして今日に至ったのである。
ちなみに現在の住まいは美琴の実家に母子で身を寄せていて、父は都心にある会社の社員寮がちょうど空いたため、仕事の都合も重なってそこに入っている。
ほとんど毎日のように美琴とメールのやりとりをし、週末には二人のところへ帰ってくるため、単身赴任だとため息をこぼすわりに、あまり違和感を感じないと唯は思っていた。
美琴の実家は彼女の母であり、唯にとっては祖母の琴音が暮らしていた。
祖父は唯が小学生のころに他界しており、旧家の広い屋敷には琴音と老猫のふたりきりであったため、二人が移り住んでも手狭にはならなかった。
男子校のときの友だちとは、今はもうほとんど連絡を取っていない。
転校は家の都合による転居ということにしてあったし、自分が実は女性であったことは明斗にしか伝えていなかった。
それについては口外しないように頼んだが、明斗以外から届いたメールの内容からは約束が守られているようだった。
別れ際の告白からも明斗は幾度となく唯と会いたがったが、治療に専念したいからと断ってきた。
男として生きてきた自分が、女に変わろうとする姿を見られることが気恥ずかしかったのと、自分のことを女性として好きだと言うかつての親友に、どうやって会えばいいのかわからなかった
ところで明斗の姉の美鈴とは、実は何回か会っている。
それはある時たまたま買い物先で遭遇したからであったが、ひと目で唯と気づいた美鈴の眼力に驚いたのだった。
「……え……ねぇ、ユイちゃん……」
校門が見えてきてからなんとなくこの半年を思い返していると、亜紀に肩を叩かれた。
「え、あ……えっと、なに?」
我に返って振り向くと亜紀はクスリと笑った。
「ううん、なんだか真剣な顔でずんずん歩いていくから、どうしたんだろうって思ってさ」
気がつくと美琴は校門のところにいて、デジタルカメラを構えていた。
「あ、ごめん……」
そういえば校門のところで写真を撮ろうという約束をしていたことを思い出す。
あわてて戻ろうと踵を返せば、そこに吹いた強い風が満開の桜並木を弄ってピンク色の花吹雪を舞い上げたのだった。




