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「一日だけでいい、俺の彼女になってくれ!」
「……おれ、男だけど?」
テーブルを挟んで向かい合った二人の前に、なんとも微妙な沈黙が横たわっていた。
時計の秒針が一周したあたりで、小柄な少年は手元のアイスコーヒーを啜り、ため息をつく。
「……それで、話ってなに?」
一分前に言われたことを、まるで無かったかのように問い直すと、対面していた長身の青年が身じろぎする。
高校生だろうか。まだ少年と呼べる年齢だろうが、体格と身にまとう雰囲気は少し大人びていて、対面する少年に比べれば青年と呼んでさしつかえが無いだろうと思えた。
青年は不意に相貌を崩してうつむき、その頭上に両手を合わせて、拝んでいるような、詫びているような格好を向けて静止した。
それは明らかに弁解の機会をうかがうポーズだった。
少年がアイスコーヒーをテーブルに戻し、ストローをもてあそぶように回すと氷がガラガラと音を立てる。
二人のいるファーストフード店のガラス窓から外へ視線を移すと、梅雨明けの空がアスファルトに熱気をつき立てていた。
華奢な顎をふたたび正面に向けると、そこにはまだ同じ姿勢のままの人物が目に入る。頭を下げているので見えるのは茶色い頭頂部だけだ。
少年は桜色の柔らかそうな唇に、本日何回目かのため息をこぼして同じ質問をした。
「それで、話ってなんだよ」
鈴を転がしたような、硬質な音色の問いは声変わり前のボーイソプラノだ。
「……やってくれるのか?」
二度目の問いに尖ったものが薄れているのを感じたのか、茶髪の青年はうかがうように目だけを上げた。
「誰もやるなんて言ってない……それにカノジョって……お前、馬鹿じゃないの?」
肩をすくめて、それでも理由だけは聞いてやると告げると、青年は日焼けした顔に笑顔をたたえて大きな上半身を起こす。
そしてひとつ咳払いをして「実はな……」と、ちょっと厳かな風に話し始めたのだった。
・・・・・
俺には同い年の「健」っていう従兄弟がいるんだけど、俺と健は小さいころからライバルみたいな関係で、
それこそどちらが先に立って歩いたとか、どちらが先にオムツが取れたとかいったことから、駆けっこの速さや
学校の成績、部活のことまで競ってきたんだ。
それがこの前、健と会ったときに「彼女」についての話になった。
健の奴はまだいないけど、何人かの女子から告白されたことがあるって言ってきた。
たしかに健はまだ一年のくせにサッカー部のレギュラーでけっこう顔もいい。
そりゃそうだよなって思わなくもないけど、悔しいだろ?
うん、そうだよ。わかってくれるか心の友よ。
それに健の行っている高校は共学だけど、俺たちは男子校じゃん?
だからもう、スタートラインからして全然違うわけで……そこで俺は閃いたんだよ。ああ、そういえば一人いた!って。
こっちが「もういるよ」って言ったときの健の間の抜けた顔を見せてやりたかったよ。
最初はあっけに取られた表情になって、それから信じられないって言いだして、嘘だろうって言いだした。
まぁ、嘘だけどな……でも一旦いるって言った手前、やっぱりウソでしたとは言えなくてね。
ははは……。
・・・・・・
「……で、人のことを勝手に彼女にした。と」
わざとらしく笑う悪友に冷たい視線を向けると、さすがに口を濁す。
「ま、まぁ……事後承諾ということで……ダメ?」
本人は可愛い子ぶって言ったつもりだったろうだろうが、そうは問屋がおろさない。
「当たり前だろ、第一おれはオ・ト・コだし」
「いやいや唯ちゃん、中学のときはクラスで一番の美少女だっただろ?いや、学校イチだったかも」
「誰が美少女だよ、誰が……この制服を着ていても痴漢に遭う辛さがお前にわかるかっての」
そう言って自身の胸あたりを指さす、少年が着ているのは二人が通う高校の半袖シャツとスラックスの制服だ。
「ああ、健も可愛いって言ってたぞ」
「……まさか、見せたのか?……もしかして去年の体育祭のときの画像……」
愕然として、震える声で尋ねると大きくうなずいた。
「ま、まぁ証拠写真ということで」
その言葉を聞くと、小柄な少年はその身体をもっと小さくするようにうなだれた。
「明斗……今日ほどお前を馬鹿だと思ったことはないよ」
「俺も、今日ほどお前にバカって言われた日はないと思う」
明斗と呼ばれた長身の青年は、友人のため息混じりの言葉に生真面目な反応をした。
「そもそも部活の対抗リレーに、女装して走ろうなんて世迷いごとを言い出したのはお前だろうが!
そのせいでおれは、文化祭でもメイド服を着て受付をやらされたんだからな!」
「まぁ、たしかに唯人に似合うだろうって思ってアイディアを出したら、他の奴らも悪乗りしちゃったんだからしかたないだろ。俺だってちゃんと着たし、おかげで大好評だったじゃん?」
「確信犯かい!」
あっけらかんと言う明斗の言葉に、唯人は金切声をあげる。
雑然として騒がしい店内ではあったが、それでも何人かは視線を向けてきた。
唯人はがっくりと肩を落とし、ため息をつくとストローを咥える。
だいぶ氷が溶けて薄くなった液体は、ミルクのもったりとした舌ざわりだけが残っていた。
「中学といえば、同じクラスだった女子にでも頼めば良いんじゃないか?」
「それは考えたけど、あんまり可愛い子いなかったからな」
「……彼女がいない男が言う台詞かよ。っていうかさ、前から思っていたけど『カノジョホシー!』なんて言っているけど、中学三年のときに2、3人くらいから告白されてただろ?たしか他クラスの可愛い子だっていたと思うけど、つき合ってもよかったんじゃない?」
「正確には5人だな」
「べつに人数は聞いてない……でもさ真面目な話、明斗は背も高いしブサイクってわけでもないんだから、
その気になれば彼女なんてすぐできると思うけど?少なくともおれとは違ってさ」
「まぁ、確かにな」
「……そこは少し謙遜するとか、否定するとかしようよ」
うんうんと肯く明人に、唯人はまた脱力する。
「まぁ、いいやそれで……いや、だからさ最初に戻るけど、『彼女のフリ』ってどういうこと?」
「やってくれるのか?」
身を乗り出してくる明斗に、唯人は両手を突き出して首を振る。
「いや、聞いてみただけ」
「頼むよぉ」
「だから俺は男だし、ちゃんとした彼女を作れよって話だよ」
「悪くない案だけど、それじゃ間に合わないんだよ」
「へっ……どういうこと?」
「だから、来週の土曜日に健が来て、会わせるって約束しちゃったんだ」
「んな……」
唯人は明斗の告白に、開いた口がふさがらなかった。
説明によると夏休みに入って最初の土曜日から、その従兄弟が明斗の家に泊まりにくるらしい。
その初日に明斗は恋人と、地元で人気のテーマパークに出かけて健と待ち合わせ、紹介することになっているという。
もちろん費用は自分が全部もつし、唯人が欲しがっていたランニングシューズも買ってやるからと協力をせがまれた。
そんなところまで話を進めているのかと唯人は戦慄して、あわてて首を振る。
「じょ、冗談じゃない!ファンタジーランドって言うのはわかるけど、それって女装して人がたくさんいるところに行くってことだろ?出来るわけない!」
「いや、大丈夫だって……俺を信じろ」
「……信じられるか、ばか」
一瞬だけ女の子の格好をして、人ごみにあふれるテーマパークを歩く自分の姿を思い浮かべて身震いする。
それから窓ガラスに映る自分の姿を見て、ため息をつく。
悲しいかな明斗の言ってることは事実だった。
16歳にもなって未だ身長は155センチほどで、中学時代は陸上の長距離選手だった肢体は、乱暴されればたやすく折れてしまいそうなほどに細かった。
母親譲りの栗色の髪と容貌は、長いまつげに縁取られた大きな瞳を筆頭に、誰が見ても超がつく「美少女」あるいは男子の制服を見てようやく「美少年」と判断するだろう。私服でひとり歩いていると、大抵は男性から声をかけられるというのが目下の悩みなのは内緒である。
少し自己嫌悪の波にのまれかけた少年の表情を伺いながら、それでも明斗は執拗に頼み込んでくる。
そんなやり取りを何回か繰り返しただろうか、時計を見ると16時をまわろうとしていた。
昼過ぎからここまで、延々と続けられた無限ループの会話に、唯人はいい加減うんざりしてきた。
眼の奥にじんわりとした疲れを感じて、長めのまばたきから少し目を瞑る。
そしてとうとう唯人はこの呆れるほどにしつこい親友(?)の頼みを呑もうとしていた。
考えてみれば、本当に騙せるのかはわからないが、とりあえず1日我慢すればいいのだ。
馬鹿な理由とは言っても一応、一番親しい友と言える明斗がここまで食い下がるのは初めてのことだった。
それに女装してみたら案の定、無理だということになるかもしれないが、その時は振られたとでも言えばいいのではないか……。
「ああもう、わかったよ」
「おお!やってくれるんだな?ありがとう!!」
唯人がため息まじりに言うと、明斗の表情はぱっと明るくなる。
そんな笑顔で迫れば彼女はすぐ出来るだろうにと思ったが、口にするのは別のことだ。
「でも、服とか小物とか……そういったものはどうするんだよ?」
「それなら心配ない、姉貴に頼むつもりだから」
「美鈴さんに?それなら大丈夫か……って、まだ頼んでないのかよ」
唯人の脳裏に手足の長い、スラリとした女性の面影が浮かぶ。
「物事には順序があるからな、まぁ唯人のことを話せば二つ返事で聞いてくれるさ」
「ま、まぁ……そうだろうな」
今年二十歳になる明斗の姉は、初対面で唯人のことを弟の恋人だと思い込んで、二人の進度をこっそり尋ねてきたという逸話を持っていた。
ほどなくして誤解は解けたのだが、唯人が男性であるということについては最後まで納得しなかった
人物の一人である。
「……じゃあ、今夜にでも電話しておくから。準備の予定が決まったらメールするわ」
明斗はそう言って立ち上がり、唯人も続いて机上のトレイを手に持つ。
それを明斗がナチュラルに奪って、空いたコップなどをダストボックスに放り込んだ。
不意に軽くなった両手をしばし見つめてから歩き出す親友の背中を追いかけたのだった。