九の九 北部遠征――北氷湿原
氷白山を回り、朱貴と秦楷将軍はその北西部に臨んでいた。見渡す限り荒涼とした湿原が広がっている。
この一帯は、幾重にも絡む水草や、湿地帯を覆う植物の太い根が蔓延って船の足を阻む。そのうえ身体が埋まるほどの深い泥土が積もる。さらには草に隠れて突然口を開ける無数の底なしの沼があって、歩いて渡ることもできない。
雲仙達山賊の一味は、草で編んだ細くて軽い特殊な船でこの湿原を渡り、近隣の村を襲っては略奪を欲しいままにしていた。
だが、湿原は今、硬い氷と雪に覆われ、がさついた広大な氷原と化していた。既に幾十もの橇が凍りついたその上に並べられ、それらを手長熊族達が各々引いている。橇には輜重など軍需物資が積み上げられ、その傍らには厳牙と手下ら元山賊を始め、冷舟の強弩隊や屈強の戦士達が並ぶ。
銅鑼鼓を高らかに鳴らし、軍の威容を氷原の彼方まで知らしめつつ、大隊は白い死の氷原を進軍していった。
やっと半分くらい進んだ頃だろうか。山の麓、東の方から、黒々とした一隊が近づいてくる。良く見ると、いくつかの部落の混成らしく、まちまちの衣装や毛皮をまとった男達が、手に手に何かを携えてくる。朱貴は、行軍を止めて彼等を待った。
やがて、彼等の中にずば抜けて背の高い者がいることに気づく。それが黒い毛皮をすっぽり覆うように着た龍蘭だと分かって、朱貴は歓喜の声を上げた。まだ頬に凍傷の傷が残ってはいるが、元気そうな彼を見て朱貴は迎えに駆け出した。龍蘭も走ってくると、義兄弟の契りを交わした二人はひしと抱き合う。
「無事でよかった。心配したぞ」
朱貴が龍蘭の毛深い腕や手を叩いて喜びを表した。
「済まぬ。俺の失敗だった」
龍蘭もあっさり過失を認める。その件については龍蘭一人の責任ではないのだが、朱貴もとやかく言わず彼の無事であることを悦んだ。
龍蘭は手長熊族を眺め、改めて朱貴に向かい、
「砦が燃えるのを見て、氷白山制圧を知った。それで、俺はそのまま山を越え、湿原へと出たのだ。麓の部落に俳県県主の賊討伐遠征の成果を話してやると、住民は喜んで一帯の村々に触れて回った。そして、朱貴殿に帰順したいと言うので、こうして村の代表を連れてきたのだ。会ってやってくれ」
と、村長達を引き合わせる。
朱貴は、そこで代表者達との会見の場を設け、まず龍蘭の世話を感謝し、次いで、村人達の帰属を喜んで受け入れた。代表者達は、彼に毛皮や魚の干物、塩漬けの海竜の肉などを謹呈した。
これで、朱貴は、北氷湿原の沿岸全域の部族集団を手中に治めた事となる。村の代表者達は手長熊族やワニ族の厳牙、冷舟ら元山賊達を恐々横目で見ながら、部落へ帰っていった。
再び、厚く張った氷の上の行軍を始めた二日後、今度は、前方から異様な集団が現れた。対岸まで、あと半日と迫った頃である。昨日吹雪いていた風はおさまり、珍しく晴れ間が覗く天気だった。気紛れに差し込む陽光が、薄汚く獰猛そうな一行を照らした。
だが、彼等に戦意はなく、両手を高々と挙げて見せた。周囲に潜伏するような覆体もないことを確かめて、朱貴は行軍を止めた。しかし、油断無く軍にいつでも戦闘に入れるよう構えの態勢を取らせる。それから、彼は秦楷将軍とともに、虎勇・玲爽を連れて進み出た。
北部山賊を束ねる雲仙が先頭に立っていた。手には何か汚らしいものをぶら下げている。一行はそれこそまさに雑多な集団だった。着衣装備は無論、種族・様子ことごとく異なっている。共通しているのは、何れも凶悪で野蛮な面構えというところ。
それが、おずおずと近づき、恐ろしそうに、朱貴ではなく、後方に待機している手長熊族を見遣る。北氷湿原の蛮族達は、朱貴の実力は知らなかったが、氷白山の手長熊族の脅威は骨身に染みて知っていた。それを配下に治めた朱貴という男は、それ以上に恐ろしいと思わねばならない。
彼等は、朱貴の一行に近づくと、氷原に桂獰の首を投げ出し、武器を捨てて降伏した。
***
十日前、氷白山の中腹にある砦が赤く炎上するのを、彼等は遠く氷原の彼方から目撃していた。そこへ、桂獰がぼろぼろになって瀕死の様子でやってきた。手長熊族を討伐した朱貴という男が率いる県軍が、いよいよ彼等を誅しにやってくると云う。
桂獰はみんなで力を合わせて、朱貴らをやっつけようと持ちかけた。しかし、雲仙は直ぐに首を振らず、頭領らを集めてどうしたらよいか兢々《きょうきょう》と相談した。
折りしも、彼等の根拠地を守る最大の天然の防塞、難攻不落の湿原は氷結して、進軍を阻むことができない。桂獰はみんなで掛かれば、地の利はこちらにあるから勝てると云い、別の頭領は逃げたほうが良いという。
話もまとまらず、わあわあ恐慌状態になっているところへ、ついに氷原を渡って来たとの報せに、山賊達は面子も意地もかなぐり捨てて、雲仙のもとへと集まった。
応戦の何の名案も浮かばぬうちに、大隊はどんどん迫ってくる。そのうち、様子を探らせに出した斥候が息せき切って駆け込んできて、手長熊族を配下に治めて橇を引かせてくると、報せた。
そこに、蛮族達は自分達の命が助かる道を見つけたのだ。彼等は桂獰を捕らえて首を落とすと、その首を土産に先を争って氷原を駆け、我先にと朱貴の足元にひれ伏したのである。
こうして、朱貴は戦わずして、北氷湿原一帯の賊を降伏させ、なおかつ配下に下したのであった。
***
寝室の帳を分けて、中に臥している者の寝息を伺った。微かに身じろぎする気配が立つ。顔を寄せていくと、麗人の眼がはっと開いた。まだ熱を帯びて、紫色の瞳は潤んでいる。
「済まぬな。起こしてしまったようだ」
朱貴は謝りながらも、いっそう顔を寄せ、解け乱れている豊かな髪を指で梳いた。
「いえ、失礼を……。それより、北氷湿原の村々の治安はいかがでした?」
美女にも見間違う秀麗な美貌を赤らめて、玲爽は身体を起こそうと苦心しながら訊いてきた。それを宥め宥め、朱貴は彼を再び横にさせる。
「無理を致すな。これ以上熱がでてはかなわぬ。村の方は、賊の脅威がなくなれば大きな問題も格別ないようだった」
「申し訳ありません。本来なら私が参りますべきものを」
玲爽の声が小さく掠れているのは、熱のせいばかりではないらしい。朱貴は北の村落の会議から戻ってきたところであった。
秦楷将軍は、北部山賊の討伐が為ると、その成果をみやげに朝都へと兵を纏めて引き上げて行った。兵士等も厳しい厳寒の土地を離れて、故郷へ帰れるので大喜びである。足取りも軽く、たちまち小さくなっていく朝軍を、朱貴は北平の外れまで見送った。
彼自身は今しばらく滞在し、その護衛として趙翼とその部隊が引き続き駐屯、虎勇達は一足先に俳県の首都関都に戻った。
彼等ではなく、朱貴が自ら残ることにしたのは、実は、玲爽がこれまでの無理が祟って熱を発し、関都への長旅に耐えられなくなったためであった。
そこで、彼の回復を待ちながら、北部の平定と治安の維持に努めることにしたのである。同時に北部西部全域の掌握も図る。軍師玲爽は床に臥しながらも、朱貴に助言や策を与えた。北部山賊掃討制圧の功のおかげで、一帯の豪族や町村も、たちまち朱貴になびいていった。
これによって、これまで俳県の勢力圏から離脱していた北部と北西部の広大な地域を配下に治め、県主朱貴の力は大きく増大した。
そして、『朝』は未だそれを知らない。俳県は、中央の都から遥か離れた小さな一地方なのである。
だが、今は……。
朱貴は野心を忘れ、熱を帯びた唇を貪るのに夢中だった。
密やかな寝室のある本陣の寺の上に、到来した深い冬の雪が幾重にも重なり、北平の地は静かな夜の帳に閉ざされていく。




