一の二 化け物退治――化け物朱貴
玲爽は再び長持ちに潜み、ニワトリで腹ごしらえをした虎勇と龍蘭がイノシシを担ぎ、利作を案内に山道を上がる。文には、食料と娘を一人出せと書いてあった。
山道をだいぶ上ったところに開けた場所があり、半分壊れたような古いお堂があった。昔は寺でもあったものらしいが、今はうっそうとした木々に囲まれ、その名残を留めるばかりだった。
長持ちやイノシシなどをお堂の中に納めると、虎勇と龍蘭はお堂の前に広がる空き地を見渡せる場所に身を潜めた。離れた所で隠れていろと言われた利作は、木の根元に震えてしゃがむ。
しばし待つこと半時、辺りが薄暗く暮れかけて来た。
そこへ、空き地の奥の方から人の近づく気配が来る。龍蘭達は藪の中で身構えた。
空地へと現れたのは意外なことに、丸い顔をした太った男で三十代あたりの村人だった。それが、後ろに振り返って告げた。
「旦那、ここで」
「そうか」
響く声で答えて、若い男が一人進み出て来た。
がっしりした身体は大きく、七尺近くはありそうだった。男らしく引き締まった顔は青白く、銀色の眼に黒い三日月の瞳孔が細く走る。髪はうねるような黒だった。特徴的なのは、額から突き出る一対の竜触角である。
異相であった。長い袖から伸びている青白い肌の手首に鱗が生えている。袷の上には、革の鎧を着けており、ゆったりした細い袴を穿き、長靴を履いていた。背には大きな剣を背負っている。
龍蘭と虎勇は広場に躍り出ると、男の前に立ち塞がった。
「出たな! 化け物! 小沛の龍蘭が退治してやる!」
「郎県の虎勇だ! 俺らに逢ったが、貴様の不運よ!」
龍蘭はぎらりと鋭い爪を伸ばし、大きく口を開いて鋭い牙を剥きだして構える。虎勇はイノシシをぶら下げて来た天秤棒を斜めに構えて、大きな目をぎょろつかせた。
すると、男も背中の剣を抜きながら、龍蘭達に対峙する。
「迎え撃つとはいい度胸だ。この朱貴が成敗してくれるから、覚悟しろ!」
朱貴と名乗った男がいい放つ。開いた口から先が二つに割れた舌がぞろりと伸びた。龍蘭達は思わず、ぞくりと身を震わせた。
「化け物め!」
虎勇が叫び、天秤棒で打ちかかろうとした時、
「あれ? 東牧! 東牧どんでねえか? 東村の!」
と、横の林から声が上がり、利作が飛び出してきた。いきなり戦闘が始まりそうな様子におどおどしていた太った男が気づいて、びっくりして叫んだ。
「あや! 梨村の利作どんか! なして、こげなところに?」
東牧と利作は互いに駆け寄ると、無事を確かめるようにバタバタと手を叩きあう。
「それが、おらの所に矢文が来て、化け物を退治してもらうべと」
と、利作が言えば、東牧も、
「んで、おらのとこでも、このままではいかんと、義勇団にお願いして」
と、朱貴を指さす。
「だから、こいつを退治するんだろう?」
「こいつらを退治すればいいのだろう?」
朱貴と、龍蘭・虎勇が相手を指さして同時に訊いた。
ん? と、両者、顔を見合わせる。
その時、突然、お堂で爆発音がしたと思うや、屋根が吹き飛び炎が噴き出して燃え始める。
びっくりして全員、お堂に目を向けると、中から娘が飛び出してきた。
「くも! 大蜘蛛が!」
驚いて見る男達に気づくと、はっと足を止めた。龍蘭が娘の所へ駆け付けた。
「大丈夫か? すごい爆発だったが、怪我はないか?」
娘がぱっと赤くなった。
「すみません。あれは、私が……」
娘の側に虎勇や朱貴もやってきた。
「大きな、巨大な蜘蛛だったのです。それで、つい、火薬玉を全部投げてしまって……、お堂を燃やしてしまいました」
「なんと、あの爆発は、娘ごが?」
龍蘭が驚きの声を上げると、玲爽はますます恥ずかしそうに赤くなった。
「蜘蛛が苦手で……。どうやら、賊は大蜘蛛を使っていたようです。蜘蛛はばらばらになりましたが、賊の手がかりも消えてしまいました。私の失敗です。申し訳ありません」
ぼうっとしたままずっと娘の美しい顔をみつめていた朱貴が、声を挟んできた。
「それなら、たぶん俺の……」
「うお! しまった!」
朱貴の声をかき消す勢いで虎勇が大声を張り上げると、燃えるお堂に駆けだした。炎もかまわず中に飛び込むと、半分焦げた角付きイノシシを担いで出てきた。
「こいつをみすみす燃やしちまうこたあないや」
一同のほうへ嬉しそうに笑いかけると、まだいくらか形の残っているお堂を壊し始めた。柱や床板を運んで積む。それを見て、龍蘭もお堂から薪の材料を集め始めた。さらに炎を上げている屋根や桁なども集めて焚き火にして、イノシシを中に放り込んだ。
虎と熊が楽しそうに、燃えているお堂を破壊してイノシシを焼き始める。その様を呆れたように見ていた玲爽は、気を取り直すと隣に立っている長身の大男を見上げた。
高い襟で隠しているが、首にも銀色の鱗がびっしりと生えているのが覗く。喜々としてイノシシ焼きをやっている二人組の方を、男はまだ唖然と見ていた。
「先ほど、何を言いかけていたのでしょうか? あの……、貴方のお名前は?」
玲爽は異相の男に臆しもしないで、ずいっと男の側へ寄った。美しい顔が迫ってきたので、逆に朱貴はたじろいで思わず後退る。
「お、俺は、斉県のしゅ、朱貴と言う。あ、あなたは?」
柄にもなく焦ってさらに退いた。これまで、これほど人が側に近寄って来たことなどなかった。人は彼を見ると化け物と恐れ、男でも逃げ出す。先ほど虎のような龍蘭も化け物だと言って退治しようとさえした。女なら逃げ出すか気を失う。それが、この娘はさらに歩を進めて側に来る。
いよいよ近づいて、鱗がびっしり生える朱貴の手を取った。近くで見れば、娘の美しさがますます際立つ。色白く、切れ長の紫の瞳は鋭く澄み、まつげは長く頬に影差し、唇赤く花のよう。華奢な顎の線と首の細さは、まるで象牙細工の人形かと思うほど。
それが、朱貴の銀色の目を真っすぐ見つめ、なおも歩を進めて答えた。
「ああ、申し訳ありません。名乗りが遅くなりました。私は、幽厳山の玲爽と申す者。どうぞ、お見知りおきを」
朱貴はあっと息を呑んだ。その名前に覚えがあった。さらに一歩下がった。あらためて礼を取ろうとしたが、両手は玲爽に握られている。
「こ、これは、名高い賢者とは知らず、失礼いたしました。こんなお若い女性の方とは知らなくて」
手を解こうとしたが、なぜか手を離さずさらに寄ってきたので、朱貴がまた下がる。下がった足が大きな木の根元に当たった。
空き地では、東牧と利作が呆れて見ていた。
熊のような大男と虎のような怪物は、お堂を壊してのんきにイノシシを焼いている。
一方、化け物のような大男は娘に押しまくられて、とうとう空き地の外れの大木まで下がってしまった。どちらにもまるで緊迫感がない。
「東牧どん、あの二人、何やっていなさるだかねえ」
利作が隣の東牧に訊いて来た。
「どうみても、ありゃあ、娘っ子が男に迫っているようだなあ。あんたんとこの娘っ子は、なかなか積極的だあなあ」
東牧も信じられないと首を振る。何も好き好んで、あんな化け物に迫らなくてもいいだろうに。すると、利作は、違う違うと首を振った。
「あの方は、おらんとこのお人じゃあないだ。おらのとこの娘の身代わりを買ってでられて……」
玲爽が朱貴に笑いながら告げた。
「私は男です。梨村の娘さんを差し出せと告げて来たので、私が身代わりを申し出ました」
「お、男?」
朱貴と東牧が時間差で叫んでいた。
「それより、先ほどの朱貴殿が言いかけたことを……」
これ以上退がれなくなった朱貴に、唇が触れんばかりに顔を寄せて玲爽が促しかけた時、ざざっと頭上の葉が鳴って、小柄な男が一人上から降って来た。
びくっとして玲爽が朱貴から離れ、現れた男を見る。
「ややや。お頭、めっぽうきれいな娘さんを口説いて……や? ……口説かれていなさるんで?」
目を白黒させた男は、両手が足まで届く猿のような様子の種族で名を猿喜と言った。赤くなった玲爽は、なんとか体面を取り繕おうと顔をそらす。朱貴が真面目な顔で猿喜をたしなめた。
「失礼なことを言うな。この方は、伝説の斐神仙の一番弟子と名高い道士様なんだぞ」
斐神仙とは、当代随一の賢者といわれ、神に通じ、気に通じ、およそ森羅万象で知らぬことはないとすら言われている仙人だった。深山に住み、滅多に人に姿も見せぬ伝説と化した道士で、幾人かの弟子を持つ。玲爽はその選ばれた弟子の一人で、非常な天才だとの噂があった。
その玲爽に向かって、
「この猿喜を、そこのお堂の近くに潜ませておいたので、きっと賊を追ったに違いない」
と、説明する。
「へえ。おっそろしくでかい化け物蜘蛛が現れた時はびっくりしやしたが、そのあと、物凄い爆発が起こったんで、たまげちまいやした」
まさか、その爆発をこの娘に化けた玲爽がやったとは、さすがの猿喜も知るはずがない。
「で、たまげたのは、あっしだけではなかったようで。男が三人、慌てたように逃げ出したんで。その後をつけてみました」
「ふむ。では、賊の居場所が解ったのか?」
「へえ。この先の谷を越えた先に砦がありやした。今、仲間が見張ってやす」
「よし。でかしたぞ」
朱貴が猿喜の労をいたわった。そこへ、虎勇から元気な声がかかった。
「イノシシが焼けたぞ。みんなで食おうや」