九の二 北部遠征――龍蘭の提案
秦楷将軍は龍蘭、果門を伴に、俳県北部山脈へと向かった。頂に万年雪を輝かせる氷白山から奥は、治外法権の無法地帯であった。険しい山脈が今なお文明を寄せ付けず、官吏の足を阻み、『朝』の支配を拒んでいた。
従って、蛮族の蔓延る地帯となり、付近の住民を脅かしていた。その討伐であるから、秦楷ならずとも慎重にならざるを得ない。
行軍の歩みを極力遅くし、道々輜重を整え、補充し、長期戦の準備を進める。氷白山の麓に布陣したのは、だから、出発して一ヶ月後であった。その頃には、秦楷は何事を相談するのも、龍蘭に意見を聞くようになっていた。『朝』都から就いてきた副官や将軍より、俳県の賊徒であるはずの龍蘭のほうがずっと信頼でき、実戦にも明るかったからである。
着陣しても、秦楷は準備を理由に、出発をぐずぐずと遅らせていた。そのうち後を追ってくるであろう朱貴らの軍を待っているのである。
朝都の将軍達には、始めから北部山賊討伐には乗り気ではなかったし、都の贅沢に慣れた身には、貧しい僻地の不自由が辛かった。朝都へ引き返そうという声が、だんだん高まってくる。
しかし、秦楷にしてみれば、朱貴を討ち果たすこともならず、何の実戦の動きもないままに帰都しては、『朝』府に顔向けができないのである。無能者の烙印を押され、職を剥奪されて屈辱にまみれねばならない。いたずらに時を浪費し、不動安寧に飽いて現状の不満が高まっても、秦楷は陣を畳むことも、かといって妄りに動くこともできずにいた。
だれている兵士に訓練を課して一汗かいた龍蘭が、そんな秦楷を訪ねたのは、陣を布いて一ヶ月も経った頃であった。秦楷は憂鬱そうな顔で、龍蘭を迎えた。陣屋の前ですれ違った副官達の憮然とした顔を見れば、それまでどんな話し合いがもたれていたか、推察できるというもの。
着陣した頃はまだ緑もあった木々が、すっかり色づき葉もほとんど落ちている。快い運動の後に吐く息は白く凍っていた。外から声を掛け、龍蘭は、逞しいガルド族の体躯を戸口に滑らせた。陣屋の中はストーブが焚かれ暖かい。龍蘭は鼻の頭に汗をかいて、厚地の上着を脱いだ。さっきまで居たカルタス人と蜥蜴族の匂いがまだ籠もっており、龍蘭は鼻にしわを寄せる。彼はカルタス人が嫌いだった。
秦楷が椅子を勧める。趙翼と同じ狼人族であるが、朝都の洗練された品があり、教養も高く、手入れのよう灰色の毛並みに血統の良さが窺われた。
「撤退すべきだと、また、ごねに来た」
秦楷は自分から打ち明けた。
「そんなことなどわしにできんことは、百も承知だろうに。やつらは自分の事だけしか考えておらん」
ため息をつきつつ述懐する。この遠征には、始めから乗り気ではなかったのだ。だが、碩鳳のあの冷たい視線に刺されては、嫌とは言えなかった。
「北の冬は早い。本格的な冬を迎える前に、動く必要があるのは、事実です。この陣屋では、冬を迎えるには確かに相応しくない」
龍蘭が単刀直入に言った。
「しかし、わしの軍は険しい山には不慣れだし、朱貴殿の軍はまだ来ておらん」
秦楷も正直に悩みを語った。龍蘭のような男には、虚飾や欺瞞は不要であった。
「軍師玲爽殿の傷は深かった。朱貴は玲爽殿の傷が、せめて行軍に耐えられるようになるまで待つと思う。それでも、あれから、二ヶ月、そろそろ朱貴も出発するだろう。配下に氷白山とその近辺の地形を探らせたところ、一帯の聞き込みで、近日に襲撃の計画があるとの情報を掴みました。我らに警戒してはいるだろうが、冬場に向けての食料の確保が必要なはず。いったん、引いたと見せて、やつらが油断して下りてくるところを待ち伏せて攻撃を掛ければ、不慣れな地形で戦わずに済む。同時に、本陣は、里に移して冬に備え、朱貴を待てばよい。捕虜を得れば、敵の詳細も手に入るだろう」
龍蘭の広げた地図をみながら、秦楷は唸る。そして、龍蘭のような英傑な部下を持つ朱貴を羨ましく思った。だが、実は、龍蘭は義憤や使命感より何より、このだれた膠着状態に人一倍倦んでいただけであった。彼は暴れたくてたまらなかったのである。
やがて、秦楷は本陣を引き払い、氷白山から離れたこの辺りでは最も大きな町である北平にまで下がって、そこに駐屯した。同時に、龍蘭は、果門を朱貴の元へ走らせた。将兵らは久々の文化的な接触に喜び、秦楷も休暇を許したので、兵士等は若干の羽目を外して町に遊んだ。だが、そこに、龍蘭や丙郁、そして秦楷の配下の法玄とその部隊の姿はなかった。
***
俳県の軍が関都を発って二週間後、果門が行軍中の朱貴を訪ねてきた。朱貴は早速、陣屋に玲爽、虎勇、趙翼等を招いて果門の報告を聞く。果門は、秦楷将軍の様子と龍蘭の立てた策を語った。玲爽は冷舟に訊いた。
「貴方は、どう思われますか?」
冷舟は氷白山の一方の主である。
「悪くはないが……いけませんな」
冷舟が呟くように毛深い体毛の中から言った。毛皮の服を着ているが、無くても寒くはないのではないかと思われる量の体毛である。鰐族の厳牙の横に座ると、華奢に見えるくらいの体格だが、強弩を引く腕力は並のものではなかった。素顔は長い体毛に隠れて見えない。桂獰の爪に裂かれた箇所の毛がまだ黒っぽい。
「やはり?」と、玲爽。
「ああ、全滅するかもしれない」
朱貴が吃驚して立ち上がった。
「なぜだ? 何処がいけない?」
「冬を知らない」
冷舟は控えめに言った。彼はあまり多弁ではなかった。
「どういうことだ?」
朱貴は混乱して言った。
「つまり、平地ではまだ秋ですが、山間部では、既に冬になっているということです」
玲爽が代わりに答えた。冷舟は肯定の言葉の代わりに頷いた。
「場所によっては、雪も降るし、氷も張る。龍蘭殿があまり山に深入りすると、凍気にやられるのです。襲撃を待ち伏せする作戦は見事ですが、敵は龍蘭殿達を自分たちに有利な地形へと誘導しようと謀るでしょう。龍蘭殿の将兵も秦楷殿の将兵も、北方の山に不慣れなことが、命取りになりかねない。まだ、山は浅いと思っているうちに、突然の吹雪に巻き込まれる恐れがあるのです」
「玲爽、そなたは氷白山に行ったことがあるのか?」
まるで見てきたことのように云うので、思わず訊いてしまった。
「いいえ、しかし、私が斐神仙先生に教えを受けていた山も、万年雪を頂く高い山中でした。ですから、山の特殊な風の吹き方も知っているのです」
「そうか。では、急がねばならぬ。直ぐに出発する。全軍に伝えよ」
朱貴はそわそわと立ち上がった。将軍達は急いで外に走り出て、命令を発し始める。玲爽は果門を側に呼ぶと
、
「済みませんが、もう一度龍蘭殿のところへ走ってください」
と、尾根に出た時、瀬に出た時の選ぶべき道、避けるべき所を伝え、さらに吹雪きに立ち往生した時のやり過ごし方など、冬山の心得を一通り伝授する。
龍蘭の危機なので、果門も一つ頷くと一目散に走り出す。彼の姿はあっという間に視界の彼方に消えてしまった。
「龍蘭は大丈夫だろうか?」
軍兵の出発準備の慌しい物音を聞きながら、朱貴が案じ顔で訊いてきた。陣屋の中は、二人だけである。
「果門殿が間に合えば。龍蘭殿は思慮深いかたですから、妄りに敵の誘いには乗りますまい。問題は、配下の兵や秦楷殿の兵なのです。彼等は龍蘭殿に帰順しきっているわけではありませんから、勝手に進んで、敵の罠に落ちる可能性が高いのです」
「俺も、それが心配なのだ。龍蘭は決して部下を見殺しにはできない性格だからな」
「はい。それとこの件に桂獰が絡んでいるのではないかと。彼は我々の情報に詳しい。龍蘭殿は彼を誘き寄せる策に掛かってしまっているのではないかと、案じられるのです」
あっと目を見張り青ざめた朱貴は、玲爽が胸の傷を庇いながら立ち上がるのを見て、気遣わしげに言った。
「行軍の速度を上げる。玲爽、大丈夫か? 虎勇をつけるから、後から来てもよいぞ」
彼は首を横に振って、笑った。
「私は軍師です。行かねば、策もたてられません。ご案じなさるな」
「無理をさせるな」
朱貴も玲爽には常にそば近くに居て助言を欲しいところなので、心配しながらも内心ほっとする。




