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竜人朱貴伝  作者: 霜月 幽
第2部 山賊討伐
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九の一 北部遠征――軍師 熱に倒れる*

九、北部遠征


 朱貴しゅき一行は趙翼の軍から遅れて五日後に関都かんとに入った。だが、関都へあと二日というところで、玲爽れいそうが高熱を発し、意識不明に陥ってしまった。十分な手当てもできない行軍は、重傷を負った身体にはきつすぎたのである。しかも、途中策略を巡らしての行程であった。傷口は無残に膿み腫れ上がり、危篤状態となった。


 その時の朱貴の取り乱しかたは、見られたざまではなかった。それまでも、重傷の軍師を心配して、何くれと玲爽を乗せている輿へと寄っては、


「玲爽、大事無いか?」と、声を掛け、

「はい、朱貴様」


 の返事を受けては、ほっとして行軍に戻るといった様子だったのだが、この日は、声を掛けても返事がなかった。

 慌てて輿の垂れを上げると、ぐったりと意識もない様子。額に触れるとひどく熱い。


「玲爽っ!」


 朱貴は悲鳴を上げた。

 ただならぬ県主の様子に、軍は歩みを止め、先頭の将へ伝令が走った。軍医が急いで容態をみたが、首を横に振るばかり。行軍の中では満足な治療ができないので、手の施しようがないのである。

 血相を変えた朱貴は、「目を覚ませ!」と、玲爽を揺すって猿喜えんきに止められ、軍医の首を絞めようとして虎勇こゆうに止められた。彼は軍の指揮も何もかも投げ捨てて、玲爽の側から離れなくなった。


 しかたなく、虎勇や猿喜が軍をまとめ指揮をとる。将兵も宰相で軍師の重体と知っているので乱れもなく県都へと急いだ。関都へと戻れば、いい医者もいるし、安静も取れる。

 今回の戦で玲爽の軍師としての采配の秀逸しゅういつさに瞠目した彼らは、これまでどうしても若すぎる玲爽を危ぶみ、軽視していた態度を改めていた。


 関都へ早々に着いた軍を解散させたのも虎勇達だった。朱貴は関都に着くなり、まっすぐ自分の屋敷に玲爽を運んでしまったからである。

 それっきり、屋敷に引きこもってしまった。それまでの朱貴の様子を見ればやむなしと、虎勇達は既に諦めの気持ちで、玲爽の回復をひたすら願った。


***


 玲爽の容態は重篤じゅうとくで、予断の許さない状況だった。俳県はいけん中の医者を求めて診させたが、手の施しようがないと言われる。朱貴は気が狂いそうだった。

 寝台に横になったまま、玲爽はまだ意識が戻らない。体は熱で焼けるようだった。このまま死んでしまうのではないかと、本気で恐れた。力の失せた手をそっと両手に包み込む。今更ながらに、自分がいかに玲爽を愛し、必要としているか思い知らされる。

 その彼が、自分を想ってくれていると知ったのは、つい先日のことだ。彼がその気持ちを誰にも告げず、一人秘して苦しんでいた事も知らなかった。だいたい、こんなに美しい玲爽が自分のような化け物を愛しているなんて、判れというほうが無理なのだ。いじらしい玲爽。やっと幸せそうに笑うようになった玲爽。それなのに、このまま死んでしまうのだろうか。


 まんじりともしない夜が今日も続く。胸の傷の布を交換のために剥がすと、膿んだ肉が現れた。悪臭のはずなのに、朱貴にはかぐわしくさえ感じる。芳香を放つ肉は甘美で、未だ滲みでる血は天上の美酒だった。食らえば、恍惚となるほどに美味いだろう。思っただけでも、どうしようもないほどの強い食欲が体内の奥から湧き出て、その欲望に飲み込まれそうになる。


 喰いたいのだ。喰らい尽くしたいのだ。玲爽の肉に、なぜ、これほどまでに激しい欲望を感じるのか解らない。他の者の肉にはこのような執拗な欲望は感じない。しかも、その激しい食欲は同時に性的欲情を感じさせた。竜人の食欲は性欲と表裏一体であった。

 しかし、それは決して在ってはならないという強い想いも生まれる。玲爽を失っては、自分は生きていけない。人として、きっと生きていけなくなると感じる。そして、竜人の血の欲望よりも、その想いのほうが強かった。


「死ぬな! 玲爽!」


 朱貴は絶望を感じて、顔を手で覆ってしまった。


その時、屋敷を訪ねてきた者があった。こんな夜分に誰だろうと、家人が取り次ぎに出た。ばたばたと駆けて来て、


斐神仙ひしんせん様のお弟子のお医者様だそうです!」


 と、叫ぶように告げた。


***


 丸五日、昏睡を続けて、東の空が明るくにじむ頃、玲爽はやっと意識を取り戻した。


 斐神仙が遣わした医者王賢(おうけん)は、腐肉を削り取る手術を施し、秘伝の薬を与えた。

 それでも、今夜が峠だと朱貴に告げた。朱貴は玲爽の枕元にずっと付き添っていた。片時も目を離すまいと頑張っていたが、連日の不眠の看病に、ついうとうととした。


 なので、玲爽が目を開けた時、枕もとの椅子でくたびれて眠る朱貴を見ることとなった。髭も剃らず、おそらく顔も洗っていないのであろう、すっかりやつれたその顔は、剛毛がごわごわと生えて、熊というより、まるでタワシだと思う。


「朱貴……様。髭を当たりませんと」


 かすれた声で、呟いた。


  朱貴ははっと目を覚まし、玲爽を見る。

 恋人の意識が戻っているのに気づくと、座っていた椅子を跳ね飛ばし、玲爽の顔を見ようとひざまずく。確かに目を開けているのを確認するや、わっと泣き出した。


「玲爽! 玲爽! お、俺は、お前が……お前に……」


 えぐえぐと泣きながら叫び、鼻水を啜り、朱貴の泣き方は騒々しい。顔中、涙と鼻水だらけで、それが伸び放題の髭にひっかかって、ひどい有様となっている。


「朱貴……様」

「玲爽!」


 朱貴が愛しい玲爽に口付けしようと顔を寄せた。その顔を、玲爽は力を振り絞って手を上げるや押し留める。


「玲爽?」

「そのお顔ではいや……です。顔を洗ってきてください」


 朱貴が憮然としていると、家人が気づいて、王賢おうけんを呼びに走る。王賢が部屋に走り込んで来ると、玲爽は弱々しく手を上げて、王賢にしばし待つようにと合図した。

 そして、まだ顔中涙と鼻水だらけの朱貴に訊く。


「私は、どれほど、眠っていましたか?」

「む・・そ、そうだな。県都に帰って三日ほどか」


 涙と鼻汁を袖でごしごし拭って、朱貴は答えた。


「それでは、朱貴様、急ぎ、県府へ上がって、従軍した将兵等へ、恩賞を発行してください」


 話す息は苦しそうで、額には汗が吹き出している。朱貴は布でその汗を拭いとってやった。その朱貴に、玲爽はなおも言葉を繋いだ。


「将兵達の心はまだ、朱貴様に帰順してはおりません。まだ、懐かぬ前の遠征でした。将兵らに不満は高いことでしょう。この機に、彼らの心を掌握することが肝要です。心の離れた百人の兵士より、忠誠心篤い一人の兵士のほうが勝ることは、言うまでもないことです」


 高熱に喘ぎながらの諌言である。朱貴はその足で県府に出、恩賞を発行した。


 関都では、趙翼・虎勇こゆうの下で、軍兵の準備が着々と整えられていた。

 県の国庫を開いて、桂獰討伐に功労のあった者には褒賞ほうしょうを与え、死傷した将兵らの家族には、恩賞を漏れなく施して慰撫いぶし、民人の信望を篤くして政治的基盤を固めた。桂獰征伐の成功は、県府の中の信頼をも高め、これまで新県主に対して不信感をもっていた多くの者も、朱貴の前に膝を折って忠誠を誓うようになった。

 その結果、自ずと、武興ぶこう時代からの腐敗政治体制も率先して改まるようになる。さらに、桂獰ほか、俳県三大山賊の平定により、他の山賊達も恐れて動きを控え、他県へ逃げ出し、または、進んで降って来る者もあって、人心も安んじることができるようになった。

 これまで、『朝』では最悪と云われていた俳県の人々に、明るい笑顔や、活気がみられるようになったのである。


***


「ようやく、です」


 玲爽が言った。朱貴の寝室である。偏梯山から戻っても、朱貴は玲爽を官舎に帰さず、とうとう自室に留め置いていた。


「地盤のない我々が、歴史も深く、人々の中に浸透しきった『朝』へ反撃を翻すには、まず、自分の基盤を固めるのが大事です。それから、初めて、一つ一つ手を伸ばして、勢力を拡大していくのです。今の我々は、『朝』にとって、そこらへんの盗賊にちょっと毛が生えたくらい存在でしかないことを自覚しなくてはなりません。謙虚に、慎重に、用心深くすることです。そして、敵の目が離れた時は、大胆に動くのです」


 玲爽は大儀そうに、乱れた髪を掻き揚げて言った。

 熱は出なくなったが、まだ胸の傷は醜悪な口を開いていた。だが、彼がいつまでものんびり寝ているわけにもいかず、朱貴の止めるのも押し切って、今も床に身体を起こし、襲ってくる目眩めまいを堪えていた。


「我々を平定したという情報は、幸い受け入れられたようですから、北部山賊遠征で、『朝』府の目を逸らし、その間に、周囲の部族や地方を恭順させましょう。言わば、一石二鳥……」


 顔色がすうっと青ざめたので、朱貴は心配して玲爽の身体を支えた。


「あまり、しゃべるな。気分が悪くなったのではないか? だから、無理をするなと……」

「いいえ、いいえ、大丈夫です」


 玲爽は吐き気を堪えて言った。『朝』をいつまでも騙してはおけない。俳県の情勢は、遅かれ早かれ、『朝』府に伝わる。そうしたら、また、新たな手を打ってくるに違いない。


 朱貴の顔が下りて玲爽の唇を奪った。吐き気がおさまっていく。身体はとろりと朱貴にもたれながらも、彼は軍師の顔で言った。


「南は大体、制圧されましたから、桂獰は北部の山賊を頼らざるを得ないでしょう。氷白山ひょうはくざんの賊を抱き込み、巻き返しを画策しているかもしれません。こちらの詳しい情報は、相手に掴れていると考えて行動するべきです」

「そうか。桂獰の奴は憎い。きっと、俺がこの手でばらばらに引き裂いてやる」


 朱貴は激しい憎悪にぎらぎらと目を血走らせた。


「何度も申し上げたように、桂獰はただ、私の傷をえぐっただけです。どうぞ、お気を鎮めください」


 この件になると、朱貴はいつも激高してしまい、玲爽の言葉に耳を貸さなくなる。桂獰は何かよほど不用意なことを朱貴に言ったに違いない。


「玲爽。お前を食うのは、俺だ。俺だけだ」


 唸りながら、不気味な独り言を呟き、肌に鼻を押し付け匂いを貪る。舌をはわし身体中を食べつくすように舐めまわす。自制を失い獣のように求めてくる。

 こうなると、玲爽も朱貴を止めることができなかった。


 桂獰の砦での夜以来、朱貴は玲爽の肉への食欲を押さえようと努力してきた。彼の芳しい肌に触れても、甘い血の匂いを嗅いでも、竜人の血は現れない。

 だが、その反動のせいか、玲爽を求める情欲は激しくなった。彼の熱が下がるまでは、辛抱強く我慢していたが、いったん熱が下がると、せきを切ったように求めた。

 玲爽がいつまでも官舎に戻れない、もう一つの理由である。


 それでも、時が経てば、軍師の身体は回復していき、やがて、長い遠征行軍にも何とか耐えられそうなまでになった。その頃には、玲爽は官舎を引き払って、朱貴の屋敷に完全に移っていた。玲爽自身も朱貴なしでは居られなくなっていたのだ。

 そこで、朱貴は虎勇と趙翼に命じて遠征の軍を編成させた。前回と違って、将兵の忠誠は高く、訓練も行き届き、士気は盛んであった。揚々と土を踏む音も力強く、軍列は関都の人々の熱心な歓呼に送られて、遂に北部遠征へと出発した。

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