八の六 山賊桂獰討伐遠征――秦楷将軍
その夜、みんなが引き上げた後で、朱貴は辛そうな様子の玲爽を寝台に横にしてやった。桂獰の私室は玲爽が嫌がったので、狭い粗末な一室である。寝台は一つしかない。朱貴は玲爽の衣服を開き包帯を解いた。彼は逆らわず、されるままにしていた。
「酷い目にあった」
朱貴は今更ながら、傷の深さに眉をしかめた。肩から入っている鋭い切り口は、彼が斬り付けたものだった。その傷を抉るようにして、肉がごっそり削り取られていた。
肺臓の一部が消失している。その下に、肋骨が白く覗いていた。見ているうちにも、じわりと血が、剥き出しの組織に滲み出てくる。並のソル族だったら、動くどころか、瀕死の重体のレベルだ。
朱貴の顔が下りた。二股の長い舌が傷を舐めている。芳しい匂いに誘われるように、舌は露出した肉を舐め、血を啜っていた。
玲爽は目を閉じた。彼は古代竜人の記録を読んだことがある。朱貴が今、どんな欲望と闘っているか、知っていた。
「お前、を……喰い……たい、と、……言った、ら、……どうす、る?」
朱貴が顔を落としたまま、しわがれた声で訊いてきた。苦労して言葉を吐き出しているような喋り方だった。
「食べてください。貴方になら、私は喜んで食べられましょう」
玲爽は静かに答えた。脅えはなかった。朱貴に喰われたら、嬉しいとさえ思った。咀嚼され、消化され、そして愛しい朱貴と同化するのだ。
――私は朱貴様の一部になる。
玲爽はその考えに恍惚となった。
胸に牙が触れ、肉の中にめり込んだ。
玲爽は目を閉じたまま、静かに待った。
だが、朱貴はいきなり顔を上げると、顔を隠すようにして、部屋から出て行ってしまった。
「朱貴様……」
閉じた玲爽の瞼を押し上げて、涙が幾筋も流れ落ちた。
***
趙翼の指揮する軍は何の抵抗もなく、関都に入った。それに数日遅れて、朱貴達も入る。この間、熾烈な智謀戦が密かに行われていた。
まずは、龍蘭が果門と一個連隊を連れて、書状を『朝』府の軍陣に届けた。陣は密かに布いていたものだったので、狼人族の総指揮官秦楷はそれだけでも、脅威と感じた。まさか、当の敵側から使者が来るとは予想していなかったのである。
灰色の体毛を逆立て混乱しながら、書状を開く。
控えるガルド族龍蘭の凄まじい迫力が、秦楷将軍を威圧し続けた。身の丈七尺、青と黒のふさふさとしたたてがみを持ち、虎に似た大きく裂けたような口からは凶悪な牙が覗いた。見上げれば、金色の鋭い目がぎらりと睨んでくる。膝に置いた大きな手は青い体毛におおわれ、猛禽属のような鋭い爪が伸びていた。
書状には、山賊桂獰の討伐を果たしたこと、この機に、北部に巣くう賊らも討伐する所存であることを述べ、将軍にも是非ご協力願いたいと記されてあった。文面は穏やかであったが、知るはずのない軍の存在を見破られた上での書文である。これは、事実上の脅迫であった。
龍蘭を捕らえることもできるのだが、気迫に押され、恐ろしくて命令を発することができない。隙がないのである。一言発したら即座に命がなくなると予感する。
「程杜殿は、いかがなされているかな? 一緒にここへは参らなかったのか? 桂獰討伐の結果を伝えるのは、彼が筋道だと思うのだが」
心の怯えを何とか隠して訊ねる。
「程杜殿には、北部討伐にもご参加して頂くことになりまして、引き続き我が軍にお留まりあるようです」
龍蘭はしらっと答えた。
つまり、人質を取られているということ。迂闊な動きはますますしにくくなる。同時にこちらの情報もどれほど漏れているか判らない不安。もはや、朱貴の隙を衝いて攻撃することは、不可能だと判断せねばならない。龍蘭はそのまま、一連隊ともども『朝』都の陣屋に客員の形で駐屯してしまった。
「微力ながら、俺も力添え致す」
見上げる巨体に牙を剥きだされて言われては、秦楷も断ることも、追い返す事もできない。その上、斥候から、朱貴らの軍が此方へ向かっていると報告があってからは、うかうかと落ち着いていられなくなった。
秦楷将軍も『朝』から委任されたほどの狼人、自他共に剛の誉れを甘受していたが、天蓋山脈を越えたこちらの荒々しい風土といい、住人の野蛮さといい、洗練され脆弱化した都とは桁違いのものがあった。そして、この怪物のような龍蘭である。
将軍は朱貴らを恐れるようになっていた。その朱貴が軍を引っ提げて、我が軍を攻撃してきたら一溜まりもあるまいと兢々となる。迎え撃とうという気概は消え果てていた。
到着した朱貴は、部隊を遠く離れた地点に駐屯させ、自身は僅かな兵と厳牙、虎勇の両将を引き連れてきた。天幕を突き破らんばかりの巨体で恐ろしげな鰐族の厳牙と顔中髭だらけの熊のような虎勇に、秦楷は肝を潰した。朱貴の容貌の特徴が、『朝』府の執政官の一人碩鳳に似ている事も、怯えを増長させた。
彼らと対峙すると、自分の陣屋だというのに薄氷の上にいるような心地がする。なぜここに軍を伏せていたのかと問い詰められたら、返事のしようがなくなる秦楷である。返答によっては、この場で首をへし折られるかもしれない。
「わざわざ都から治安平定のためにお越しくだされ、かたじけないことである」
だが、朱貴はそう言ってにっこり笑った。笑うと、とても明るく爽やかであった。秦楷は救われるような気持ちで、朱貴の顔を見つめる。碩鳳と違って冷酷な冷たさは感じなかった。
ついに朱貴は、『朝』軍出兵の理由や伏兵については問わず、穏やかな歓談に終始した。気がつくと、彼は熱心に北部討伐に赴くことを誓っていた。
「兵を整え次第、私も応援に参ります」
朱貴も約束して引き上げていく。
秦楷は陣の外れまで一行を見送った。そして、朱貴が連れてきた兵がそのまま龍蘭の配下として、陣屋に留まっていることを知った。龍蘭は朱貴が配した秦楷の監視であった。『朝』府の目論見は、早くも大きく頓挫したのある。
だが、秦楷は失望を覚えない。北部討伐に、龍蘭のような男が付いていてくれれば、どれほど心強いだろう。そして、朱貴やその部下が後ろにいてくれれば。彼が裏切らない限り、彼らは決して見捨てたりしないことを、秦楷は肌で感じていた。
秦楷の副将はこの様子を見て、都に注進の書状を配下の者に託して走らせた。このままでは、朱貴討伐ならずと判断してのことである。
これを、見張っていた猿喜が街道で待ち伏せた。書状ともども、朱貴の陣屋に引っ張ってくる。朱貴と玲爽はこの使者を懐柔し、忠誠を誓わせた。そして、玲爽が作成した偽の書状を届けさせたのである。
天蓋山脈の向こうで駐屯していた派遣県主はこれを受け、朱貴討伐は成ったと信じて、軍を退いた。そして、その旨を都に申し送った。そのため、『朝』府では、暫し、事態の進展を安閑と許してしまったのである。




