八の三 山賊桂獰討伐遠征――山賊桂獰
偏梯山の奥深く、背後に絶壁、側面に深い谷、片面に登攀不能の切り立つ岸壁と、鉄壁の天然の要害に守られて、桂獰の根城があった。岩を切り出して砦を構え、今、櫓には冷舟の配下が弩をつがえて守っている。千七百の兵を此処への途中に伏せてあり、残りの手下達も矛や槍をしごいて待っていた。
広場に赤々と篝火を焚き、山賊の頭領達が車座になって席を作っている中央に、桂獰がいた。大きな盃を持つ手は、もじゃもじゃに絡み合った青黒い毛に被われ、指の爪は長すぎてもう引っ込まない。胸を反らせると下の筋肉が膨れ上がって、鉄の鎧はみしみしと悲鳴を上げた。
青黒い剛毛に覆われた顔は、酒が入って赤黒く染まっている。残忍で凶暴な顔だった。肉食獣の鋭い牙は禍々しく黄ばみ、品位なくだらりと垂れ下がる厚い舌には、同じガルド族の龍蘭が見たら眉をひそめさせるものがある。裂いたような目は目脂で汚れ、酒で濁り、知性の片鱗も覗えない。桂獰から発するものは、残忍な暴力と卑猥な獣性だけであった。
その男の前に、玲爽が引き出された。後ろ手に縛られ、ぐったりと俯く身体の腕と胸からは、まだ出血が続いている。髪を止める冠はなく、結ばれた髪が乱れて白い貌に掛かっていた。
「どうした? その男は?」
桂獰の唸るような問いに、宗怨が答えた。
「朱貴めが軍師で、玲爽と言う者。わしの術を破りおった」
「ほお。おぬしの術を⁉」
桂獰はからからと笑った。宗怨が苦々しげに黒い体毛を震わせているのも無視する。
「ふむ。美形だな」
濁った声に、玲爽は顔を背ける。
沼地で白い霧が発生したとき、彼は瞬時にそれが催眠による効果だと気がついた。術の影響を解くために、腕を自ら傷つけた。龍蘭には、暗示がかけられているだけだと判った。主力は朱貴のほうに注いでいた。このまま沼の深みに誘い入れて溺れさせるか、術で弱体化した所を手下に屠らせるつもりなのだろう。
恐ろしい悪鬼でも見えるのか、あっと脅え萎える兵達に、既に術の影響下にあるだけに、宗怨の仕掛けた催眠を逆に仕掛け返して、自信と気力を奮い起こさせるのは難しくなかった。
問題は朱貴だった。彼はまっすぐ、底なしの深みへと踏み出そうとしている。声を掛けて止めたが、それで、宗怨に気づかれ、捕まってしまった。
朱貴は完全に術に嵌まっていた。術を解くには、術師を倒さねばならない。この場合は、朱貴をして宗怨を斬らせること。自分も一緒に斬られると判っていたが、意に介さない。それは成功した。だが、宗怨に捕らわれたのは、不覚だった。
そこへ、冷舟がぼろぼろになって戻ってきた。趙翼達を全滅させるつもりであったものを、逆に謀られ散々に惨敗したという。桂獰の目が玲爽を見た。
「ふむ。こいつの策か?」
宗怨が間道へ二手に分かれて待つと言った時も、まさかと笑ったものだった。だが、敵は沼地のほうへも出て、術まで破っている。必勝の段取りと、その上、裏の策まで破られて、桂獰もよい気持ちのはずがない。まして、敵は喉元まで迫ってきたのである。このまだ年端もいかないような若者の所為で。
桂獰は立ち上がると、玲爽の前に進んだ。殺気がどす黒い塊となって、空間を汚す。宗怨がはっと身を起こしかけたとき、桂獰は玲爽の胸に、物騒な手を振り上げていた。
少年は声もなく崩折れた。鋭い爪が、胸の傷を抉り取ったのである。服の切れ端が付いたままの肉を咀嚼する。大きな舌がべろりと口の周りの血を舐めた。その様には、宗怨や冷舟達でさえもぞっとさせるものがあった。
「うまい」
と、言ったのである。もっと食おうと、身を屈めた時、斥候が駆け込んできた。
「敵の本隊が梯渓坡まで迫ってきました!」
「こいつは後で喰う。それまで死なせるな」
桂獰は手下に命じると、自身は百キロはある槍を手に砦の高台へと進んだ。
「玲爽の首を掲げて見せれば、朱貴らの士気も挫けると思うのだが」
宗怨が後を追って進言した。宗怨は自分の策を破った玲爽の知力を恐れていた。早く始末して後の憂いを絶っておきたい。
「こわっぱなど、わしが一捻りでやっつけてやる。あやつは、勝利の宴の馳走だ。生きたまま喰ってやる」
桂獰は笑い飛ばした。
***
趙翼は県の兵を引き連れて、梯渓坡まで来た。龍蘭と朱貴の部隊も合流する。梯渓坡を抜ければ、桂獰の砦まで一直線である。これまで激しい戦闘を戦ってきたが、まだ多くの兵力を残し、意気盛んである。殊に、玲爽を目の前で奪われた朱貴の気概は凄まじく、味方の兵まで怖気づくほどであった。
ここで、桂獰の隊とぶつかった。趙翼が兵士を鼓舞して、号令一喝、鬨の声高く当たっていく。龍蘭も咆哮して、自ら山賊どもの中に突っ込んで行った。たちまち梯渓坡は血臭に染まっていく。その中を、朱貴は群がる敵を蹴散らしながら、ひたすら桂獰の根城へと走った。




