八の二 山賊桂獰討伐遠征――周怨の妖術
一方、龍蘭と朱貴・玲爽の一行は、狭い林道を尾根に出る間道へ向けて上がって行った。岩に塞がれた道をよじ登って、左に出れば尾根、右に出れば沼地へ下がる所で、深い霧に包まれる。乳白色の霧はみるみる濃さを増し、直ぐ隣の兵の姿も見えず、気配すら覆い隠した。霧は実態を持つ壁となって、彼らを弧絶させた。
「龍蘭殿! 左へ!」玲爽が叫んだ。
龍蘭はそれで、周怨の術が始まったことを悟った。かねて言われていたように、迷わず左へと踏み出す。すると、前方に深い谷が現れ、道は崖となって切れていた。はっと足を止める。右には、尾根へと続く道が伸びていた。思わず、そちらへ行こうと足を踏み出しかけると、
「左へ進んで!」と、玲爽の声。
龍蘭はごくりと唾を飲み、見えないが、確かに居るはずの自分の部隊に言った。
「このまま左へ進め! これはまやかしだ。崖などない!」
そして、一歩を踏み出す。
「龍蘭!」朱貴の声が突然呼んだ。
「龍蘭、こっちだ!」
振り返りたいのを一心にこらえて、龍蘭はなおも進む。とうに崖から落ちてもいいのに、足元はしっかりと道を踏んでいる。彼は自信を取り戻すと、見えない部下を励まして左へ左へと進んでいった。やがて、霧は嘘のように消えた。
彼と部隊は尾根に出ていた。右側に深い谷へと落ちる崖を見て、ぞっとする。まやかしに釣られて右に進んでいたら、確実に谷に落ちていたのだ。
ここで魔力が切れたということは、後は敵の伏兵がないという事。
「行くぞ!」
龍蘭は部隊に号令すると、桂獰の根城へ向かって急いだ。
朱貴は玲爽と沼地に入っていた。部下達と離れ離れになって、いつしか彼と二人だけになっている。「あっ」と、声だけ残して、玲爽の姿が消えた。
沼の深みに落ちたのだろうかと、朱貴が立ち止まって振り返ろうとすると、玲爽の声がどこからか聞こえた。
「振り返らないで。方向がわからなくなります。そのまま、まっすぐ進んでください」
朱貴はその声に従った。だが、進むうちに、ますます霧は濃くなって、殆ど物体のように濃密になる。その乳白色の中に、ぼんやりと影が浮かんだ。
朱貴ははっとした。玲爽が腰まで沼に嵌まってもがいている。
「玲爽!」
思わず叫んだ。そのうちにも、彼はずぶずぶと沈んでいく。朱貴は助けようと、進みかけた。
「止まって! そちらに行ってはいけません!」
玲爽の声が反対方向からした。朱貴は立ち止まる。
すると、目の前の玲爽の直ぐ近くの水面が泡立ち、巨大な影が水藻を割って伸び上がってきた。三つ目の大水蛇である。玲爽の二倍もある太い胴を立ち上がらせると、もがく玲爽に巻きついた。
「玲爽っ!」
ばきばきと音を立てて、愛しい者の骨が砕ける。
朱貴は我慢できなかった。剣を抜くと、水蛇へと駆け出す。
「斬って! 斬ってください!」
玲爽の声が背後で叫んだ。苦しそうな声である。朱貴は混乱し、訳がわからないまま、玲爽ごと水蛇を両断する。
ぱさっと幻が消えた。霧が晴れる。
彼は沼に膝まで入っていた。もう一歩で底なしの深みに落ちるところだった。
「よくぞ、破った」
声のほうをみると、沼の岸に黒く長い体毛に被われた周怨が立っていた。長毛族である。その一部からじんわりと紫の血が滲み出て流れる。
「玲爽はっ?」
「ここだ」
いつの間にか、周怨の触手に絡まれて玲爽のぐったりした姿があった。腕と胸から血が流れている。
「こやつめ、自分の腕を切って、わしの術を破りおった。胸の傷はお前がやったものだ。幻を斬った剣は、わしと、こやつを斬ったのよ」
朱貴は周怨目掛けて駆けて行く。周怨はすうっと滑るように遠ざかった。
「玲爽!」
「はははは、桂獰が砦まで来るか?」
黒い姿は、玲爽と共にふっと消えた。
突然、激しい戦闘の物音に囲まれ、はっと朱貴は我に帰った。沼の周囲で、彼の部下と周怨の手下が血みどろの戦いを続けていた。あれもまやかしだったのか? だが、玲爽の姿も周怨の姿もない。おそらく部下達は、玲爽によって幻の術策を解かれ、それ以来ずっと戦闘を続けていたのだろう。
くそっと歯軋りすると、朱貴は血相も変えて、敵へと向かった。口が裂け、牙が伸びる。銀の目が血走り、文字通り悪鬼の形相と変じている。鬼人も恐れる猛攻に震え上がった周怨の手下達は、たちまち乱れ散じてしまった。
***
虎勇と厳牙は、ニ刻余りも闘い続け、なおも決着をみなかった。さすがに両者とも、流れる汗は滝の如く、激しい息遣いは嵐のよう。山賊と県兵の戦いは、とうに山道に移っており、二人のいる空き地には累々と死骸が転がっているばかり。周囲の木や岩も、二人の豪傑の闘いのあおりを喰らって、満足な姿を留めているものは一つもなかった。
自分が疲れている時は、敵も疲れている。虎勇はぐんと膝を折って身を沈めた。厳牙も間合いを見たのか、巨体を走らせた。
重い矛が唸る。虎勇は瞬間、跳んだ。鉄棒が素早く回転する。矛が虎勇の左上胸を切り裂いた。同時に、厳牙の分厚い岩のような瞼の上から、右目に鉄棒が振り下ろされていた。
二人は互いの位置を入れ替わって、向き直る。厳牙の顔を血が緑に染めていた。虎勇の上体からも血が噴き出す。
「小僧、やるな」
厳牙が突風のような息の下から言葉を吐き出した。豪華なばかりに輝いていた鎧はぼろぼろに裂けている。
「貴様もなかなかのものだ。ちっとは、見直したぜ」
肩で大きく息をしながら、なおも闘志は些かも失わず、鉄棒を構えてにやりと、虎勇が歯を剥きだした。
何を思ったか、厳牙はいきなり構えを解いて立ち上がった。
「待て、虎勇」
不審がる虎勇に、厳牙が声を掛けた。殺気が嘘のように消え、虎勇も当惑して膝を伸ばす。
「わしは久し振りに闘いらしい闘いができて、満足だった。だが、このままわしらが闘い続ければ、おそらく勝負はつかず、挙句に合い果てて、卑しい獣の餌になるばかりだろう」
「俺は、貴様となら合い果てようとも、悔しくはない」
「それが、お前の若さだ。だが、わしはそのような無意味な死に様は御免だ。肝心の戦は、とっくにわしらから離れてしまっておる。ここでどちらが倒れても、大局には関係ないだろう。わしも、桂獰にそこまでしてやる義理はない」
「つまり、勝負は終わりってことか?」
虎勇も戦意を失って、鉄棒にもたれた。今更ながら、疲労しきっているのを感じる。そんな様子を、厳牙はにやりと笑って見た。
「腹は空かんか?」
厳牙は辺りに転がっている死体を物色すると、肉の良くついた蜥蜴族を一体拾い上げて、それを引き裂いた。言われて、虎勇も、猛烈な空腹を感じた。
「焼こうぜ。生を食うと、腹に虫が湧く」
そそくさと、裂けて倒れている木を掻き集め、火を起こした。厳牙が放って寄越した尻尾に、太い枝を通して焙り出す。それが山賊のものか、県兵のものかなど気にしない。そこらに転がして、死体掃除屋の連中に食わすよりは、功徳になるとさえ思っている。
厳牙はいくつかめぼしい物を拾ってくると、火の前に座り込んだ。脚や胴を串刺しにして火に当て、掻き出した内臓をむしゃむしゃやりだす。食べながら、目の上の傷をがりがり擦った。傷はもう、塞がりかけている。虎勇はまだ出血している胸の傷を、裂いた布で手早く巻くと、まだじゅうじゅういっている尻尾を食い始めた。
二人は、しばし無言でひたすら喰った。やっと腹が満ちて、両者、目を合わせると高らかに笑い出す。
「郎県の虎勇か。吏官にしておくのは、惜しい豪傑だ」
「貴様も、山賊には勿体無い。なんで山賊なんかやっている?」と、虎勇。
「わしも食っていかねばならんからなあ。そういうお前も、役人の柄ではないぞ」
「成り行きなんだ」
虎勇はこれまでのことを語った。厳牙は腹を抱えて笑った。
「なるほど、それで、山賊退治なのか。こいつは。とびっきりの冗談だ」
厳牙の話を聞いて、虎勇は面白くなさそうだった。
「そっちには冗談でも、こっちは真剣だ。山賊退治は愉快だけど、『朝』都の命令に一喜一憂するのは、面白くない。おまけに、桂獰に、『朝』都から密書が来てるらしいって? 馬鹿にするのもほどがある」
「ふふふ、やるのか?」
厳牙は楽しそうだった。
「それは、朱貴兄貴が考えることだ。まずは、桂獰の奴を倒さなきゃな。『朝』府とつるんでるとなったら、尚更だ」
腹がいっぱいになったので、虎勇は立ち上がる。厳牙がのっそりと巨体を持ち上げた。
「お前と組むのも面白そうだ。どうだ? わしを仲間にいれんか?」
「本気か?」
虎勇はびっくりして相手を見つめた。さっきまで、死闘を演じていた相手である。
「山賊では、信用ならんか?」
虎勇はじっと相手を睨んだ。
「いいや、貴様ならいいよ。それに、貴様が騙す気だったら、俺がそのぶっとい首をすぐさまへし折ってやるからさ」
厳牙はがはははと豪快に笑った。




