六の四 新県主 朱貴――新政権始動
県主の部屋を辞した玲爽は、精力的に動き出した。新閣僚の発足は早いにこしたことはないのである。だが、従来の閣僚を一掃し全てを新しく立て直そうとしたので、そのための準備は多岐にわたり、問題も気が狂うほど山積みされていた。とかくすると緩んでしまいそうになる顔を、玲爽は意識して引き締め、仕事に集中しようと努力した。
一方、朱貴は、一日中、思い出し笑いで締まりなく緩みっぱなしで過ごしていた。秘書や事務官達は、どうも今日の県主はおかしい、変だと囁きあう。恐ろしい異相の朱貴がにたにた笑っていれば、それは不気味に違いない。
だが、朱貴はそんな彼らの非難がましい視線にも、
「俺がどんなに幸せなのか、知らないだろう。あの美しい玲爽がどんなに素晴らしいか、お前達は知るまい。ざまあみろ」
と、嬉しくて仕方ない。楽しい隠し事をしている気分なのである。できるなら、もう玲爽は俺のものだと、大声で言い触らしてしまいたい。だが、さすがにそれだけは踏み止まっていた。
結局、その日、朱貴は人事勧告書も、県主心得書も開いたり閉じたりするだけで、とうとう頭に入らなかった。
執務時間が終わる時刻が近づくと、今夜は玲爽を自分の屋敷に呼ぼうと、朱貴はうきうきと思った。結婚したんだから披露目もやらねば、いやまず、祝いだ、といろいろ計画を楽しく巡らす。
そこへ、玲爽から来て欲しいと連絡を受け、朱貴は舞い上がる。玲爽の仕事部屋である書記室の扉を、踊りだしたい気分で開いた。そこに、龍蘭や虎勇、趙翼、猿喜ら仲間全員の姿を目にして、あっ? と、目を丸くする。他に何人か知らぬ顔もあった。
玲爽は朱貴のにやけた顔を目にして、内心眉をしかめる。この様子では、朱貴は一日仕事にならなかったらしいと判ったのだ。うかれている暇などないというのに。
「県主殿、人事の発表は明後日行います。それでは、新閣僚となる方々を、ご紹介いたしましょう」
玲爽はわざと堅苦しい調子で、一人ひとりの名前と役職を改めて披露した。男達は席を立つと県主に拝礼する。目をぱちくりしている朱貴に、今後の予定を矢継ぎ早に伝え、了承の承認をとる。新閣僚達がわさわさと足早に立ち去ると、玲爽も書類をまとめて出ようとした。
そこを朱貴が辛うじて掴まえる。
「今夜、俺の屋敷に来れないか?」
玲爽は、きりりと厳しい捨て目をくれた。
「朱貴様、私の話をお聞きになっていなかったのですか? 明後日の発足までに、やらねばならないことがたくさんおありでしょう。私は、これから、新役職の根回しに参らねばなりません。朱貴様は、人事一覧に目を通して、私がお渡しした心得書きをよく頭に叩き込んでおいてください。明日は、もっと忙しくなりますから」
ぴしゃりと言って、玲爽はさっさと行ってしまった。
それから二日間、閣僚発足に向けて、寝る間もないような慌しさが続いた。新政権が始まれば始まったで、これまた目の回るような忙しさが続く。玲爽が敢行しようとするのは、腐敗政治体質を一掃する大々的な政治改革であったからである。
あらゆる方面で、随所に従来的な慣行の習慣や官僚体質と衝突し、反発され、難航する。これまで、五百年以上に渡って積み重ねられた腐敗と汚職の汚泥にまみれた土壌は、一朝一夕で改まるものではなかった。だが、玲爽は若さと熱意で断じてやり遂げようと決意していた。
朱貴も玲爽に尻を叩かれ、ばたばたと走り回るような気分で、馬車馬のように忙しく仕事をしてきたが、さすがにそろそろうんざりしてきた。
もともと勇猛が売り物で、何でも腕力でものを言わせてきただけに、のらりくらりと言い抜ける海千山千の官僚相手での折衝は、疲れるばかりで脱力が募る。
秘書が、未処理の書類の束を机の上にどんと置いていったが、朱貴は見向きもしないで欠伸をする。
頬杖をついて、あの晩の玲爽を思い出していた。裸の玲爽はとても美しかった。彼の肌はとても良い匂いで、朱貴を捕らえて夢中にさせた。このまま食べつくしたいとすら思った。きっと、肉もとてつもなく美味に違いない。もう一度キスしたい。もう一度、抱きたい。
そうだ、まだ、結婚の祝いもやっていないではないか! すっかり忘れていた重大事を、朱貴は思い出した。
宰相室で仕事に没頭していた玲爽のところへ、朱貴から私信が届いた。
『今夜、拙宅においで願い、一晩泊まれたし。』
の文面に、彼は目を見張った。あまりに端的であからさまだったので、一瞬言外の意味を読み取ろうとして空白になる。
次いで、ぼっと赤面し狼狽した彼はその後しばらく、彼らしくないミスを重ねる破目となった。何とか今日の業務を終えると、彼は一旦官舎に戻って着替えてから朱貴の屋敷に向かった。
朱貴はもと武興の屋敷に手を入れてそのまま使っている。門の前で、さすがに玲爽はためらいを覚えた。彼にとっては、この屋敷には辛く苦しい思い出しかない。彼が姿を現すと、待っていた家人が出迎える。すれ違う何人かに見覚えのある者がいる。無頓着で拘りのない朱貴は、使用人の殆どもそのまま使っているらしい。
案内された部屋に、龍蘭、虎勇の義兄弟や趙翼、猿喜など、気の置けない身内同然の仲間が揃っていた。朱貴がにこにこと手招きして、彼の隣の席を示した。彼を待っていたらしく、すぐに料理が運ばれる。並んだご馳走の山を目にして、玲爽は目を見張った。
虎勇はうわあ! と歓声をあげて大喜びだ。朱貴は、酒の盃を掲げると、
「今日はみんなに祝ってもらいたいのだ」
と、言った。玲爽ははっとする。
「何のお祝いなんだ?」
龍蘭が訊いたが、朱貴はにこにこと笑って明かさない。
「まあ、とにかく、飲んで食べてくれ」
「そうか? じゃあ、なんだか解らないが、とりあえずおめでとう。遠慮なく、頂戴しよう」
龍蘭が盃を掲げ、虎勇は、
「いやあ、めでたい、めでたい」
と、もう酒を飲み始めている。
玲爽はうろたえ、赤面を抑えるのに苦労する。朱貴の意図がわかったのだ。その誠実な心が、涙がこぼれるほどに嬉しかった。これまで、想い合うのは不可能と諦め、ひたすら心を隠して仕えてきた辛い日々が、淡雪のように昇華されていくような気がした。
そんな玲爽を、趙翼は温かい眼差しで見守り、猿喜はこっそりと嬉し涙を拭った。
「先生、今夜は、俺達の結婚のお祝いのつもりだった」
朱貴が優しくかき寄せながら打ち明ける。武興の寝室を、すっかり模様替えして、朱貴の好みの調度に整え、以前の様子も思い描けないくらいだった。
帳を払って、得意げに見せた寝台は特別サイズの大きなもの。今、二人はそこに腰掛けていた。
「判っていました。朱貴様」
玲爽もきつく抱きすがる。祝いだと思ったから、彼も、今夜は飲めぬ酒も飲んでいた。そのせいか、身体がふんわりと浮き上がるように心もとなくだるくて気持ちがいい。
酒に快く酔った玲爽は、肌が桜色に上気して目許も潤み、素晴らしく色っぽい。そんな玲爽を眺めて、朱貴は幸せだった。
「先生、貴方はどうしてこんなに美しいのだ。貴方は、俺のものだ。俺だけのものだ。誰にも渡さない。いいな。他の男に触れさせたりしたら、俺は許さない。絶対、許さないから」
「嬉しい。朱貴様。私を、貴方のものだとおっしゃってくださるんですね。それなら、玲爽と呼んでください。先生なんて、水臭くて嫌です」
朱貴は戸惑った顔をした。今でも、彼は玲爽を師と仰いでいるのである。
「さあ、呼んで」玲爽が催促した。
「う……む。で、では、玲爽……」
「はい、朱貴様」
「玲爽」
「はい、朱貴様」
玲爽は幸せそうに朱貴の胸に顔を埋める。
「朱貴様。私はずっと、いつまでも貴方のものです」
「俺は夢を見ているようだ。先生のような素晴らしい人を、この手に抱いているなんて。俺のものになったなんて。今でも、信じられない」
玲爽は両手で朱貴の頭を捕らえると、優しく熱く口付けした。




