六の一 新県主 朱貴――人事勧告書
六、新県主朱貴
思いがけなく突然、県主になってしまった朱貴は、何をどうすべきかわからぬまま、山積みになったやらねばならない仕事を前に、混乱した頭を抱えていた。
何から手をつけたらいいのかも判らず、すっかりおろおろしているところへ、文官が封書を運んできた。
見ると、封書に玲爽の名がある。
そういえばあれ以来、ずっと彼の姿を見ていない。
それどころか、あの騒乱の真っ只中で出会った時に、わずかな言葉を交わしたきりだ。
話したいことがいっぱいあったのに、ばたばたと忙しく物事が進んで行き、とうとう話をする機会もなかった。
そうだ。どうして彼は出て来ないのだ? 玲爽が居れば、きっとたちまち、きちんと物事をあるべき姿に整えてくれて、自分がこんなに悩まなくて済むはずなのだ。
少々むかっ腹を立てながら、朱貴は封書を解いた。
それは県府の任命すべき官吏を記した人事勧告書であった。
さっそく開いて見ると、全ての役職、係りについて、一つ一つ仕事の明細と推薦する名が書かれてあった。龍蘭たち仲間の名も、従来からの文武官も適材適所に漏れなく記され、欠員のところは後に採用と注意書きまで添えられている。
感心して読み進んでいた朱貴は、おや? と目を凝らした。
どこにも玲爽の名が無いのである。
もう一度最初から見直しても、ひっくり返しても、逆さにしても何処を捜しても見つからない。
どういうことだ? と、朱貴は血相を変えた。書を片手に握り込み、立ち上がる。
その足で、彼は県府を走り出た。
***
玲爽は筆を休めて、強張った肩をほぐした。
今、彼が記しているのは、県主となった朱貴が今後為すべき事柄、事業の一つ一つを、その留意事項も含めて細かく具体的に箇条書きに著わしたもの。
琢県県主高善と、かねてよりの打ち合わせ通りに全ての事を進めてしまうと、玲爽は誰にも会わずにさっさと官舎に戻ってしまった。もう、朱貴にはとても会えない。会わせる顔などないではないか。
玲爽は朱貴から去ろうと決意した。これ以上留まって、さらに軽蔑されるのだけは御免被りたい。
世の表裏を経験してきた正義感の強い朱貴なら、きっと良い県主になってくれるだろう。
ただ、残念なのは、彼が朱貴のそばでその手助けをしてやれないことだった。山賊退治を生業にしてきた朱貴らにとって、いきなりの県政運営は面食らうばかりだろう。
だから、人事や施政の方針など最低限必要な手引きは残していってやらねばならない。それがあれば、朱貴は自分がいなくとも、きっと立派に県を立て直していってくれるに違いない。
それが今、玲爽にできる精一杯の誠実だった。
彼は夜も眠らず筆を進める。一刻も早く立ち去れるように。
しかし、朱貴への強い思慕の念で、度々と彼の筆は止まった。
彼から別れて去ると考えただけで、胸が張り裂けそうなほど辛い。
愛しているのだ。こんなにも。
これほどに胸を熱くさせてくれる人に出会ったのは初めてだった。
一生を捧げる人はこの人以外にいないと思った。一生にただ一人の人なのだ。
優しくて、強くて、大きくて。子供のように一途で真っ直ぐな人。
玲爽の心が、全身が、彼を求めて熱く狂う。
そう、きっと遅かれ早かれ、自分の浅ましい正体はばれる。
彼から去るのが、少し早まっただけ。これは当然の報い。
でも、朱貴から去って、自分は今後どうやって生きていったらよいのだろうか。
自分の心は死んでしまう。空っぽの抜け殻となった身体は、二度と熱く燃えることはないだろう。こんな凍えた自分を引き摺ってさすらうくらいなら、いっそ死んでしまったほうがいいのかもしれない。
不覚にも涙がこみ上げ、嗚咽を漏らし、袖を幾度も濡らした。
老夫婦がばたばたと荷造りの準備をしている。
もう、時間が無い。はやく書き上げてしまわねば。彼が朱貴の為にせめてやれる最後の勤めである。
玲爽は書面に意識を集中させた。
***
朱貴が玲爽の官舎へ息せき切って走って行くと、唯一の使用人である綿杉族のほっそりした老夫婦が家財道具を車に積み込んでいる。
何事だ? と、朱貴は眉を顰め、老夫婦に問い詰めた。
すると、
「主が仕事を辞めて旅に出なさんので、私どももこんして引き払う準備をいたしておりますだ」
と答えた。
彼はがんっと頭を殴られたような気がした。
――先生が仕事を辞める? 俺から、去ると言うのかっ!
朱貴は案内も請わず家の中に駆け込み、数少ない部屋を片っ端から開けて玲爽を捜す。
どの部屋もがらんとして何もなかった。
***
ばたん、どたんと、扉が音を立てていた。
老夫婦は何を慌てているのだろう。
玲爽は筆を動かしながら、意識の片隅でそう思っていた。
バタン!
突然、扉が乱暴に開かれて、玲爽は顔を上げた。
そこに立っていたのは、恐ろしい形相をした朱貴だった。
玲爽は反射的に立ち上がって、顔を強張らせる。
中に踏み込んだ朱貴は卓の上の書きかけの書面に目を走らせ、立ち竦んだままの玲爽に視線を向けた。
「これは、俺の為のものだろう? 先生、どうして県府に出て来ないのだ? あれ以来、俺は貴方の顔を見ていない」
玲爽は黙ったまま、視線を外す。
「これに、貴方の名が無いのはどういうわけだっ?」
朱貴は玲爽に人事勧告書を突きつけた。片手に握り込んだままだったので、くしゃくしゃになっている。玲爽は目を逸らした。朱貴の顔を見られない。
「聞いたぞ! 仕事を辞めるとは、どういうことだ? 貴方は、……先生は、俺を見捨てるのかっ?」
だが、玲爽は頑なに視線を外したまま答えない。
朱貴はかっとなった。自分でも思いがけないほどの激情が、臓腑の中からうねるように湧き上がってくる。
「俺が、竜人だからか? 俺が嫌いなのか? だから、俺から去るのだなっ!」
形相が険しく変貌する。
持っていた書を投げ捨て、華奢な肩をわし掴んだ。指の爪が硬く曲がり、玲爽の肩に食い込んだ。
「誰もが俺を嫌い、恐れる。それもしかたがないと諦めていた。だが、貴方は違うと思った。貴方なら、俺を理解してくれると信じていた。しかし、貴方もみんなと同じなのか? 俺を……俺を、怪物だと、厭うのか!」
それは、朱貴の悲痛な叫びだった。彼の悲しみが、苦しみが、玲爽を突き刺す。
「けれども、貴方だけは許せない! どうしても、俺を捨てるというなら、俺は……、俺は、……貴方を殺す! 貴方を食う!」
朱貴は激しい言葉を叩きつけながら、恐ろしい竜人に変貌する。
口が裂け、牙が伸び、ざわっと髪が逆立っていく。むき出した牙を伝って唾液が滴った。
殺気で燃えるような銀色のまがまがしい瞳は、しかし、むしろ悲しく、今にも泣き出しそうだった。
玲爽はその瞳を見て、胸が張り裂けそうな思いがした。
自分の愛しい人がこんなにも傷つき、悲しみに震えている。誰にも愛されない苦しみに、限りない孤独の悲しみに、彼は今、心がばらばらに千切れてしまおうとしている!




