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竜人朱貴伝  作者: 霜月 幽
第1部 黎明
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五の四 弾劾――決起

 その頃、玲爽れいそうは一人県府へと向かっていた。

 全ての手配は済んでいる。後は、武興ぶこう達を糾弾きゅうだんするのみ。


 前夜から食事を断ち、沐浴潔斎もくよくけっさいを済ませ、下着も新しくし、単衣の下には白装束をまとっていた。懐には短剣。自害用である。

 死に装束に身を包み、これが朱貴しゅきとの今生の別れだと思う。

 玲爽の脳裏には朱貴の笑顔があった。だが、決して自分の手には入らない笑顔。


 何度死のうと思ったことか。地獄のような日々だった。

 彼はせめて自室を恋しい人の好みに整え、その中で仮初めの夢を見る。夢を見ながら、幾晩も泣いた。

 だが、それも終わる。全てが終わる。


 朱貴達が県主たちのあまりにもの悪辣なやり方に業を煮やしていたのは、よく承知していた。それでも、彼は動けなかった。

 行動を起こしたら、武興はためらわず、彼の恥辱ちじょくを告げるだろう。汚らわしい男娼と県主と、どちらを信用するかと問えば、選択は明らかなのだから。

 自分の忌まわしい行為を、朱貴に知られることは、死ぬより辛かった。彼に嫌われ、さげすまれては生きていけない。

 玲爽はずるずると決行を延ばし続けた。

 それは、未練であった。


 結局、自分の不始末は自分でつけるしかない。どの道、もう自分の生きる道は、残されていないのだ。ただ、救いは、これで朱貴が助かり、荒廃したこの俳県の光明となってくれるだろうこと。

 その為の布石となるならば、自分の汚名も耐えられるというもの。


 玲爽はきっと唇を引き結んで、県府の前に立った。

 もう、迷いはない。


***


 県府の広間に県主武興が現れ、居並ぶ文武の役人達が一斉に拝礼した。

 武興は正面の県主の座に納まると、大臣らが口を開くのを待った。役人達は武興の沙汰が降りるのをじっと待つ。

 しばし、無言の時が流れた。大臣達が訝しげな視線を交わし、武興は苛立って声を上げた。


「わしを交えて至急相談したいことがあると云うから、この忙しい時に、出て参ったのだぞ。李休りきゅう、さっさと申し述べろ」


 名指しされて、大臣筆頭はうろたえた。


「いえ、わたしどものほうこそ、県主様の要請が降りまして、こうして何事かと参っている次第でして」

「なんだと⁉」


 武興が不審もあらわに身を乗り出し、役人達の間にざわざわと当惑の波紋が広がった。


「いったい、誰の要請なんだ? 責任者は誰だ?」


 当惑の声がだんだん大きくなり、ついには喧々囂々《けんけんごうごう》たる騒ぎになる。

 そこへ、玲爽が現れた。つややかな紫の髪を冠で止め、地味な文官姿に死に装束を隠した彼は、煌々と眼光鋭く、ぞくりとするほど美しい。


「皆様をお呼びたて致したのは、私です」


 全員の目がさっと向く中で、武興が腹をたてて声を荒げた。


「いったい何のつもりだ! たかが、一介の簿官ぼかんの分際で、出すぎた真似であろう。この責任を取る覚悟はあるのだろうな!」


 自慢の髭を震わせ、激して怒鳴る武興に対し、


「私は貴方がたを、汚職その他以下の罪で告発致します」


 と、よく通るりんとした声で宣言すると、手にしていた文書を床に投げた。

 巻き書は武興の足元までくるくると解き進んで止まり、墨の香りも鮮やかな達筆の文書が、床に開いた。それは県主武興を始め、ここに集められた役人達のこれまでの悪行の数々を、残らず書き記したものであった。

 それと認めて、全員の顔色が変わる。


「同じものを県府の前の大通り広場に掲げてきました。証拠は全て押さえてあります。もう、言い逃れはできません。貴方がたの罪状は、日の下に明らかにされたのであり、それは関都中に、そして、俳県中に広く知れ渡りましょう。潔く罪を悔い、相応の処罰を受けてください」


 驚愕と怒りに口も利けないでいた武興は、だっと立ち上がるや、形相凄まじく玲爽に指を突きつけた。


「何を血迷った! 玲爽! 貴様、自分の立場を忘れたか! こうなれば、貴様の秘密をばらしてやる! それを聞けば、誰も貴様の言うことなど耳も傾けぬわ!」


 玲爽は歯を食いしばる。全て覚悟の上。懐中に隠した短剣にそっと触れた。これは彼を守る最後の砦。


「よく聞け! 賢者とは名ばかりのもの。貴様は、汚らしい……」

「黙れっ!」


 大音声とともに、ばんっと扉が突然開き、朱貴が飛び込んできた。

 唖然と口を開いたまま棒立ちになっている武興の前に、ひとっ跳びで駆け寄ると、問答無用に頭頂から真っ二つに斬り裂く。

 武興は一言も発せずに、どうっと血煙を上げて倒れた。

 わあっと立ち上がり、動揺する役人達。


 そこへ、龍蘭りゅうらん虎勇こゆうらが次々に駆け込んできた。

 浮き足立って逃げる大臣。剣を抜いて斬りかかる将軍。

 それに対し、龍蘭達も槍や鉄棒を手に暴れ出す。

 

 わあわあと広間は手もつけられない騒ぎになった。

 あまりのことに、茫然と立ち尽くしていた玲爽を、朱貴が強引に広間の外へと連れ出した。


「ここは危ない。先生、こちらに」


 一番安全そうな武興の執務室へと連れ入る。


「なんという事を! めちゃめちゃになってしまったではありませんか!」


 玲爽は険しい口調で朱貴を責めた。

 せっかく自分ひとりを犠牲に、無血で解決しようとしていたのに、これでは夥しい流血沙汰になってしまう。

 

「貴方を死なせたくなかったのだ。もう、心配はいらない。武興は死んだ。もう、何も喋れないんだ」


 玲爽は、ぱっと朱貴から飛び離れた。

 知っている!

 朱貴は知っている!


「貴方は……、貴方は、知って……!」


 悲痛な声で叫んだ。玲爽はとっさに隠し持っていた短剣で胸を突いて死のうとした。


「……っ! 何をするっ⁉」


 吃驚した朱貴は素早く玲爽に飛びつくと、一手で短剣を払い落とした。


「玲爽っ! なぜ、死に急ぐ!」

「朱貴様……」


 玲爽は逞しい両腕に抱きしめられたまま、間近にある朱貴の顔を仰ぎ見た。


 ――今の言葉をどう解釈していいのだろう? 私を軽蔑していないのだろうか? 死ななくてもいいということなのだろうか?

 

 玲爽は必死になって、朱貴の顔から全てを読み取ろうと見つめた。

 朱貴もじっと彼を見つめる。

 朱貴の唇が触れそうなくらい近くにある。朱貴の腕が熱い。

 玲爽の胸はどきどきと痛いくらいに高鳴った。


 ――これは、期待してもいいのだろうか? ひょっとしたら、朱貴様も私を……? 愛を打ち明けてしまっていいのだろうか? 今、ここで。


「朱貴様……」


 苦しくて、玲爽は喘ぐように愛しい名を呟いた。

 朱貴がじっと見つめたまま、彼を抱いている。

 すがる瞳が朱貴の見下ろす視線と絡む。

 蜜のような唇が震えた。玲爽の肩を掴んだ手に、朱貴の力が籠もる。

 男の口が開き、先の割れた舌がちらりと覗いた。

 朱貴の顔が近づく。玲爽はふっと目を閉じて……。


 その時、わああっと時ならぬ叫びが上がり、同時に喧騒けんそうが一段と激しくなった。

 二人はびくりと顔を起こす。

 夢から覚めたように見つめ合った。

 広間のほうから、ただならぬ動揺が伝わってくる。


 玲爽も朱貴も立ち上がった。

 こんなことをしている時ではなかった。人命が多く失われようとしている一大事の最中なのだ。

 玲爽はすぐに自分を取り戻し、軍師の顔を被った。

 自分のことは後回しだ。この混乱を収めなければならない。

 二人は部屋を飛び出し、騒ぎの場へと駆けつけた。


 警ら隊が突入してきたのだ。

 ますます暴れまわる虎勇達。いよいよ騒乱は激しさを加えている。


 そこへさらに、出動要請を受けた軍が参入してきた。

 さすがに旗色悪しと怯んだところへ、趙翼ちょうよくが一軍を率いて現れる。

 戦局は一層混迷化していき、戦闘は県府から正面広場へ、さらには大道へと華々しく広がっていく。

 玲爽の決断は早かった。


「朱貴殿、降伏なさい」

「何だと⁉」


 朱貴はびっくりして、玲爽を見た。

 玲爽は厳しく冷静な表情で、あくまでも明快に説く。


「このままでは多数の犠牲者が出ます。これ以上の騒ぎは無意味でしかありません。既に役人達の罪状は明らかにされ、武興が死んだ今、速やかにこの騒乱を鎮める事こそが肝要です」


 朱貴はじっと玲爽を見た。

 先ほどまでの動揺は欠片も見えない。人をして化け物と言わしめた恐ろしい顔を、ひたと見据えて揺るがなかった。

朱貴は一つうなずくと、戦闘中の仲間に向かって叫んだ。


「みんな、武器を捨てろ! 降伏する!」


 そして、警らに向かい、


「我々は降伏する。これ以上の戦いは望まない!」


 と、叫んで剣を投げ捨てた。

 耳を疑った龍蘭達も、朱貴が降伏してしまったので、仕方なく武器を投げ捨てた。


 あわや戦争かと思われた武力抗争は速やかに収束した。

 玲爽は果門かもんをひそかに招き寄せ、一筆走り書きして、琢県の高善こうぜん様に急ぎ届けて欲しいと頼む。

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