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竜人朱貴伝  作者: 霜月 幽
第1部 黎明
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五の三 弾劾――朱貴出陣

 早朝から空は青く高く抜け、暑くなってくる予感を感じさせた。

 初夏の朝の涼やかな風が“とげ桃”の甘い香りを心地よく届ける。早朝に咲く花の茂みの上でじーじーと気の早い甲蝉かぶとぜみが鳴き始めた。色付き始めた果物のたわわに実る梢の下、朱貴らはいよいよ軍を率いて出発した。

 一軍と言っても、総勢百二十人の部隊。十人も満たない人数で徒党を組んでいた朱貴らにすれば大軍である。


 関都の外壁門を出ると広々と田畑が広がり、街道沿いには人家も並ぶ。背後に大きな関湖かんこようするこの辺りは、なだらかな平地で、貧しい俳県の中では際立っている。畑にはトウモロコシに似た作物が既に実り、黒い翼の小さな翼竜が細い茎の上に器用に留まって突いていた。一段下がった田では、ソルから持ち込まれていたらしい稲が青々とした葉の間で金色の花を咲かせている。軍の足音で、小鳥の群れが一斉に羽ばたいて空へと逃げた。

 だが、たちまち山が迫りくるようになり、荒地の中の道は細く、人家もまばらになった。街道は山林を抜け、これを越えると関都かんとの隣、犀瓜さいかに入る。


 龍蘭は司令官朱貴の副で先頭を行き、趙翼と虎勇がそれぞれの一方の隊長を務める。

 虎勇は張り切って、遅れる兵に怒声を飛ばし後に先にと走り回り、やたら元気だ。

 趙翼はずっと考え込んで静かだが、元来無口なので目だたない。


 朱貴はその中で、そわそわと落ち着かなかった。

 行動を起こす時は、いつも玲爽がそばに居ることに慣れてしまっていたので、彼がいないと何かが足りないような気がして不安になる。

 彼のことだから、後を追ってくるのではないか、今にもそこの茂みから現れるのではないかと、ついつい後に目をやり、きょろきょろ見回して、気もそぞろだった。


 山道を越え、犀瓜に入った所で朱貴は軍を止め、食事を取らせた。

 沢沿いの少し広がった所で、隊列を解かせるには丁度よい。こんもりした茂みが、暑くなってきた日差しを遮って疲れを癒す木陰となっていた。


 そこで、趙翼は朱貴に話があると連れ出した。

 道々、彼は玲爽の見解を話すべきかどうか悶々と悩んでいた。

 初めは県堺まで行けば、一目瞭然となるのだからと、それまで黙っているつもりだったのだが、だんだんそれではいけないような気がしてくる。

 理由はない。虫の知らせと言ったものか。

 ついに、趙翼は朱貴に打ち明けることにした。


 朱貴はそれを聞いて、仰天した。

 もし、玲爽の云う通りなら、このまま軍を進めるわけにはいかない。


 それで、龍蘭や虎勇ら仲間を集めて、今聞いた話を繰り返した。

 意見は二つに分かれた。玲爽を信じようとする趙翼と朱貴。それに対し、


「それは玲爽の策略だぞ。おぬしは、奴の舌先に騙されているんだ」


 と、虎勇ははっきりと不信感を示す。龍蘭もそれに同意した。すると、韋駄天いだてん果門かもんが申し出た。


「ここで騒いでも仕方ありません。俺がひとっ走り県境まで、どちらが本当なのか確かめに行って参ります」


 彼の足なら、軍が四日掛かる行程を一日で行って帰れる。そこで、朱貴らはこのまま軍を止め、果門の帰りを待つことにした。


***


 出陣する前から、猿喜もずっと暗く黙り込んでいたが、趙翼の話を聞いて焦りを覚えた。

 軍師がこれまでどうしても動けなかった真の理由を知っているのは、彼だけなのだ。

 だが、趙翼の話で、玲爽がついに動くのではないかと危ぶんだ。

 たった一人で。

 それが何を意味するのか、猿喜は恐れた。


 あの夜以来、彼は玲爽に対し思い違いをしていたと悟っていた。

 彼は高慢な冷たい男でも、仲間を裏切る男でもなかった。彼は朱貴を愛していたのだ。

 男の身で、切ないまでに。

 彼のこれまでの言動をそういう視点で思い返せば、どれほど朱貴を恋い慕っていたかよくわかる。


 それなのに、不本意に蹂躙じゅうりんされ、誰にも言えず黙って耐えてきたのだ。

 軍師としての矜持きょうじを高く保ってはいるが、彼はたったの十六なのだ。それが、これほどに苦しい恋をしているなんて。

 猿喜は玲爽が不憫ふびんでならない。


 だが、彼はこれまで、朱貴に話す事ができなかった。

 朱貴も玲爽を好もしく思っていることは分かる。だがそれは、軍師として必要な存在だからなのかもしれない。

 猿喜が余計なお節介をして、玲爽の立場が悪くなったら可哀相だ。

 しかし、今はもう、そんなことなど言ってはいられないのではないか。


 猿喜は悩み悩んだ末、ついにこれも朱貴を物陰に呼んだ。

 周囲に誰の耳もないことを慎重に確かめ、それでも人目を憚った囁き声で、「実は……」と、玲爽が武興に関係を強要されていることを話したのである。

 そして、どんな反応をするのか心配して、じっと朱貴の顔色を見守った。


 朱貴は絶句した。

 衝撃に物も言えず、身を強張らせた。

 次いで、怒りが猛然と湧いてくる。

 自分の顔が険しく強張るのがわかる。怒りで身体が震える。

 なぜ、すぐその足で武興を八つ裂きに行かなかったのか分からない。


 先生を! 武興の奴!

 俺の大切な軍師なのに! 

 俺の何よりも大切な先生なのに! 

 俺の玲爽を!

 許せない! 断じて許せない!


 激しい怒りに何もかもが飲み込まれようとしている時、猿喜が言った。


「先生が言っていたっていう、その時になれば全てが明らかになるってえのが、どうしても気になりやすんで。先生は、お一人で行動を起こすつもりなんじゃあないでしょうか? ひょっとして、先生は死ぬ気なんでは?」


 瞬間、朱貴の全身に冷水を浴びせられたような気がした。


「何だって⁉」


 朱貴の顔色が変わる。猿喜が説明した。


「何が明らかになるってえのか。それは武興を始めとする汚職役人の罪状でやしょう。けれども、武興だって、そうしたら、先生の秘密をばらすにちがいねえ。それが公けにされたら、先生は死ぬしかない。そんな屈辱にとうてい生きてはいられやせんでしょう」


 猿喜の話を聞きながら、朱貴は嵐の中のように混乱していた。

 なぜ、先生が死ぬのだ。なぜ死なねばならんのだ。死ぬべきなのは武興のほうだ。


「先生を死なせるわけにはいかん! 早まる前に、手を打たねば!」


 死なせはしない!

 朱貴はそのまま駆け出そうとした。

 関都へ戻るのだ! 先生を止めねば! 

 猿喜が慌てて止めた。


「一人じゃ無理で。まずは、果門が戻るのを待ちましょうや。それからでも、遅くはありやせんて」


 むむむと、一応納得したが、朱貴の目はぎらぎらと殺気走り、落ち着きなく動き回っていた。

 先生が武興に! それは思いがけなくも、衝撃的な話だった。

 圧倒的な激しい怒りが彼を支配していた。その怒りは彼の理性すらも飲み込んでしまいそうだった。


 ――先生、早まるな。俺が武興を叩き切ってやるから。先生、死ぬな!


 朱貴は焦りで悶々と眠れぬ夜を過ごした。一睡もできない。

 天幕の中にもいられず、うろうろと辺りを歩き続けた。じっとしていられないのである。


 歩きながら、ようやっと玲爽の気持ちを考えられるようになってくる。

 先生が妙によそよそしく、顔を避けるようにしていたのは、俺を嫌っていたからではないのだ。

 どんなにか苦しい思いをしてしていたことだろう。

 男の身で男に犯されるということがどんなものか、彼には想像もつかないが、相当辛いであろうことは察せられる。彼はそれを誰にも打ち明けられず、一人でずっと耐えていたのだ。


 なんて可哀相な玲爽。どうして打ち明けてくれなかったのだろう。

 水臭い。

 やっぱり、嫌われているからなのだろうか。

 自分では頼みにならぬと思っているのか。

 そう考えると、身を切られるように辛かった。


 翌日、果門が転がるようにして、軍陣に駆け込んできた。

 息が整う間も惜しみ、叫ぶように報告する。


「ちょ、趙翼殿の言う通りでした。県堺の何処にも、軍の侵攻を受けた村はないし、軍兵もいません。そんな噂もありません。何もかも、武興の嘘だったのです」

「!」


 聞いて、虎勇達は陣椅子を蹴立てて立ち上がった。


「なんと! 知らずにいれば、俺達は何の疑いもなく琢県を攻めてしまうところだった!」


 龍蘭が叫べば、虎勇も、


「ちっくしょう! 武興の奴!」


 と、地団駄踏んで悔しがる。


「一度、戦をしかけちまったら、いくら知らなかったと騒いでも通らない。結局、武興の言うがまま続けていくしかなくなっちまう。それどころか、下手すると、こっちが戦を仕掛けた張本人にされちまうところだったなんて!」


 怒りあらわな顔の仲間達に、血走った目で朱貴が焦りも隠さず命じた。


「馬を飛ばして、急ぎ戻るぞ。趙翼、おぬしは軍を率いて後から戻れ。できる限り急いでくれよ。軍師の命が掛かっている。直ぐ出発だ! 急げ!」

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