五の二 弾劾――猿喜の目撃
玲爽を追っていた猿喜は、武興の屋敷に忍び入った。天井裏を足を忍ばせて渡る。
半刻前に彼が武興に伴われて入っていくのを見届けている。人の会話や気配に耳を澄ませながら、当たりをつけた武興の部屋へと移動した。
猿喜は、玲爽が格別嫌いというわけではない。山賊退治の目を見張るような智謀には、尊敬すら覚えている。軍師としての彼の力量は認めていた。
しかし、彼が心酔している朱貴が、あんまり玲爽に甘いので、少々やっかんでもいた。
自分は一番最初の仲間だという自負がある。それが、自分を差し置いて、誰よりも新参者を大事にしているとなれば、正直面白くない。
朱貴は、常に彼を自分の横に置いて離さず、いつも彼の様子を気遣い、まるで、玲爽に仕えているみたいだ。
それに、玲爽が朱貴に近づきすぎることを危惧してもいる。
玲爽はただの美しい少年ではない。深入りしたら身を破滅させてしまうような妖しい危険を感じる。
猿喜は朱貴に警告したが、彼はわかっているのかいないのか、笑って取り合わなかった。
玲爽の声がした。続いてばちんと叩く音。
猿喜はそっと羽目板をずらす。ぜいを凝らした寝室だった。こちらに背を向けて寝着姿の武興。その前に倒れていたのは玲爽だった。
猿喜は目を見張る。
片手で頬を押さえて半身を起こした玲爽の着衣は乱れ、冠を外した髪はずぐりと崩れている。形の良い唇から、つうと糸を引いて血が赤く垂れた。
正直、猿喜はどきんときた。下半身を直撃する色気だった。
「もう、どうかお許しください!」
玲爽が叫んだ。
「毎度、甲斐のないことよ。さあ来い。お前の心一つで、優しくもなろう」
「嫌です! これ以上私に触れたら、私は舌を噛んで死にます!」
「ふん、逆らったらどうなるか忘れたか?」
玲爽は、はっと顔を強張らせた。
「誰の首を落としたい? やつらを牢に繋ぐのも、獄門首に掛けるのも、わしの胸一つだと言ったろう。お前は、拒めん」
それでも、きっと、きつい視線を投げる玲爽に焦れて、武興が怒鳴った。
「頑迷な! いっそのこと、奴にばらしてやろうか? お前がここで、どんなによがり狂っているか。奴が知ったら、何と言うだろう」
玲爽は紙のように青ざめる。
「知らぬと思ったか? 何度、名を呼んだことか。お前は無我夢中で気がついていないのだろうがな」
わなわなと唇を震わせる玲爽に、武興は命じた。
「ふん、それほど知られるのが怖いか。ならば、来い」
玲爽は痛々しく身を起こすと、武興の前に跪いた。
***
猿喜は夜の道を走りながら、信じられぬ思いで一杯だった。
玲爽と武興の関係があんなものだったなんて! 玲爽は裏切っていたのではなかった。武興に蹂躙されていたのだ!
しかも、どうやら、自分達が枷になって、拒絶できないでいるらしい。
猿喜は足を止めた。
これを朱貴に告げていいのだろうか? 玲爽は知られたくないからこそ、耐えているのだ。
猿喜の脳裏に、先ほどまで展開していた光景が蘇る。苦痛と官能に眉を寄せ、涙を溢しながら、うわごとのように呟いた名。
「朱貴様……」
***
疲れた身体をどうにか自宅まで運んだ玲爽は、そこで趙翼の訪問を受けた。
趙翼には、やはり、玲爽がみんなを裏切っているとはどうしても思えなかったのだ。
そうすると、武興の話と琢県の高善の態度が矛盾してくる。
混乱し、迷った趙翼は、玲爽に何もかも話してみようと思ったのである。彼なら、きっと明快に解いてくれる。
玲爽の官舎を訪ねたのは初めてだった。
彼ら以上に質素だった。装飾の類も無駄なものも、潔く一切ない。明日にも、身一つでここを出て行けそうだった。
ただ一つ、寝台と居間を隔てる帳が、華やかといえば華やかか。
趙翼は、おや? と首を傾げた。これと似たような感じのものを何処かで見た覚えがある。そして、思い出した。
朱貴の官舎だ。これは朱貴の好みだ。
そうやって見れば、この卓も椅子も敷物もみんな朱貴の好みで統一されている。
どういうことだと眺めていると、扉が開いて、玲爽が茶器を手に入ってきた。
彼が使っている使用人は老夫婦だけで、時刻が遅いと休んでしまうのだと言って笑う。軍師自らの接待に、趙翼は恐縮した。
「貴方がわざわざこんな時刻に訪ねていらしたのは、何か余程の問題なのでしょう。どうぞ、お話しください」
玲爽が趙翼に促した。それで、武興に呼ばれた事から一切を語った。饒舌ではない趙翼は、茶を飲み飲み、つっかえつっかえ苦労して語り終えた。
そして、じっと探るように玲爽の顔を見つめる。玲爽の表情は動かなかった。
「虎勇殿のお疑いも もっともなことです。しかし、これだけははっきりと申し上げます。高善様は決して俳県を攻めようなどとはしておりません。軍を起こしたという事実はないのです。むしろ、逆に、俳県の武興が、豊かな琢県を狙っているのです。高善様はそれを心配して、私に相談されたのです。考えてもご覧なさい。琢県が、貧しく荒れた俳県を得ることに、どんな利点があるでしょう。それは、未だに、俳県から琢県へと、人々の流出の絶えない事からでも解ることです」
「では、俺達の出兵は、何の為に?」
「武興も考えたもの。もちろん、そのまま本当に、首都明楼を落とさせるつもりなのでしょう。一度、軍を起こしてしまえば、後は勢いのまま、なし崩しに攻め込む事になるのです。軍を進める理由など、後からいくらでもつけられます。そうやって進軍して行き、気がついたら、しっかり戦争を起こして、琢県を攻め取っているでしょう。名の知れた朱貴殿を先鋒に進ませるのは、相手をひるませる理由のほかに、切捨て自由の消耗品だからです。失っても武興の痛手にはならない。戦局が拙くなれば、さっさと本軍を引き上げて、これは朱貴殿達の勝手な暴挙で、我々も討伐隊を向けたのだと白を切り、全ての罪をひっかぶせてしまう腹なのでしょう」
趙翼は憮然と声を失い、次いで、猛烈に怒り始めた。
「武興の奴! な、なめた真似を!」
黒い毛を逆立て、ぶるぶると身を震わせて仁王立ちする狼人の趙翼に、玲爽が静かに訊いた。
「それで、朱貴様はいつ出発する予定なのです?」
はっと我に返った趙翼が、困惑して答えた。
「明後日に。既に率いる一軍は蓋門前に集結している。どうしたらいいだろう?」
「取り合えず、軍を率いて出陣してください。でも、県境で軍を止め、私からの連絡をお待ちくださるよう。報せが入ったら、軍を伴って急ぎ関都へお戻りください。その時、全てが明らかになっているでしょう」
告げる玲爽の表情は厳しく硬い。武興め。なんと狡猾でしたたかな男。彼は、一石で二鳥も三鳥も狙っているのだ。
朱貴がうまくいけば、豊かな琢県が手に入る。失敗した時は、全ての罪を朱貴になすりつけて知らん顔をし、玲爽は自分のものにできる。
もう、待てないと決断した。例え、身の破滅となろうとも、これ以上、武興の勝手にさせるわけにはいかない。




