四の四 玲爽の秘密――朱貴の孤独
残された朱貴はむなしく伸ばした手を引くと、ぎっと拳を握る。俺は拒否されたのだ。あの美しい軍師に。
彼は強張った顔で乱暴に椅子に座ると、盃になみなみと酒を注いであおった。その腕を眺める。銀の鱗の走る腕。自分でも気味悪いと思う。
人は彼と触れ合うのを嫌がり、女は姿を見るのも怖がった。親に憎まれ、世間に疎まれて。
朱魁先生も厳しい人で決して甘えさせてはくれなかった。人に抱いてもらった記憶すらないのだ。
龍蘭達でさえ今でこそ彼を義兄弟といい認めてくれているが、初めは化け物と叫んで身構えたもの。今でも時折、ぞっとした顔を見せる時がある。
だから、朱貴も努めて身体の不要な接触を避け、暑い夏でも長袖長ズボンに長革靴を欠かさない。
それなのに、玲爽は初めて会った時いきなり鱗のある手を取り、普通の当たり前の人間に対するように話しかけてきたのだ。
そんな経験は初めてだった。しかも、それがまるで、天女のような麗人なのだ。どんなに驚きうろたえたことか。朱貴は思い出す度、未だに感激してしまう。
こんなこともあった。玲爽がくたくたに消耗して、がくりと膝が崩れた時、直ぐそばで趙翼が手を差し伸べたにも拘わらず、彼がとっさにすがりついたのは朱貴のほうだった。抱えた一瞬、ぎゅっと胸に抱きすがってきたような気がした。嬉しくて思わず相好を崩し、虎勇にからかわれた。
だが、虎勇は知らないのだ。以前、崖から足を踏み外した娘を助けようと手を伸ばした時、娘が鱗の手を拒否して自ら落ちて行った事があったのだ。
その時の娘の表情は、心の痛みとともに目に焼きついて離れない。
そう、あんなこともあった。天蓋山脈越えで何日も野宿し、泉をみつけた玲爽が行水した。彼は川と見ると身体を清めたがった。
夜営地から離れていたので、護衛のつもりで付き添った。
彼は一緒に入ろうと誘ってくれた。この身体を気味悪がらない気持ちが嬉しかったが、それでも手足中に生えた鱗を見られたくなくて断った。
彼はがっかりしたようだったが、嫌われるよりはいい。
朱貴を化け物扱いしない唯一の人間なのだ。その彼の目に嫌悪の色が浮かぶのは見たくない。
月光に白く輝く彼の裸体はこの世のものではないような美しさで、朱貴はいつまでも見惚れていた。
玲爽の優しさは、竜人の宿命を背負うささくれた朱貴の心を穏やかにしてくれる。だが、同時に、彼の美貌は朱貴に、自分の異形を痛烈に意識させた。
――やっぱり、彼も俺が嫌いなのだ。
それは、絶望的な認識だった。あれほど美しい存在が、自分のような醜悪な化け物に好意をもったりするはずなんかないではないか。それを、性懲りもなく……。
朱貴は自分の異形を、今ほど怨みに思ったことはなかった。
荒々しく酒を飲んでいると、天井の羽目板がかたんと外れて、小柄な男が降ってきた。
「やあ、あっしにも一杯くださいや」
猿のような顔をした猿のように身軽な男で、名を猿喜という。朱貴に傾倒して、最初から付き従っている古参である。ただ、難点は、扉から滅多に入ってくることがないこと。覗きと聞き耳が病的に止められない性質だった。
さっそく手酌で始めながら、
「さっき、玲爽先生がいやしたでしょう」と、言う。
「あっしは、昨日、先生が妙な所から出てくるのを見ましたぜ。どこだと思いやす?」
「気をもたせるな。さっさと言え」
機嫌の悪い朱貴は苛々と言った。朱貴の気性をよく知っている猿喜はあっさりと答える。
「それが、なんと武興の屋敷でさ」
ぴくりとした朱貴は、それでも玲爽を弁護した。
「不思議でもないさ。役所の仕事が残っていると言っていた。仕事で行っていたんだろう」
「私宅ですぜ。それも、真夜中も真夜中、あんな遅い時刻まで、どんな仕事があるっていうんでやすかね」
うっと言葉に詰まった朱貴に、猿喜は続けた。
「先生は、あっしらを唆すようなことを言ってるけど、実は武興とぐるなんじゃないですか? のらりくらりといつまでも腰をあげないのは、そのせいなんじゃないでやすか?」
「まさか。まさか、先生に限って、そんな、俺達を裏切るような真似をするはずが!」
血相を変えた朱貴に、猿喜が猿顔を歪めて、苦々しげに言った。
「判りやせんぜ。しょせん、先生は文士だ。官僚の仕事が性に合ったのかもしれやせん。頭が切れるんでやすから、どんなことを企んでるかしれたもんじゃない。そっくりあっし達を嵌めて献上し、手柄とするのかも。そうすりゃ、出世は確実」
「馬鹿な! 先生はそんな人じゃない!」
だんっと拳を卓に叩きつけて叫ぶ朱貴を、斜めに見ながら、猿喜はそれでも言い募った。
「じゃ、この頃の先生をどう説明するんでやす? どう見たって、先生は変でやすよ。あっしは、現にこの目で、武興の屋敷から出てくるのを見たんでやすからね!」
「いい! 俺が直接、先生に聞いてみる」
勢い良く立ち上がって、しかし、朱貴ははたと唇を噛んだ。自分は玲爽に嫌われている。のこのこ行って嫌な顔をされたら、何と切り出して訊いたらいいのだろう。
「先生の後をつけてみやす。証拠が出たら、お頭だって、認めるしかありやせんからね」
朱貴が立ったまま思いあぐねていると、猿喜は捨て台詞を吐いて、朱貴の止めるのも間に合わず、ひらりと天井に消えてしまった。
***
玲爽の官舎は、賑やかな町中を外れた寂しい場所に一つぽつんとある
武興は自分の側に住まわせようとしたが、彼はがんとして断ったのだ。三つの部屋と使用族の棟があるだけの小さな家は暗く、居室にもしている寝室に戻った彼は、燭に火を灯すと、深いため息をついて寝台に腰をおろした。
手を差し伸べてくれた朱貴。あの手を取れたら。しかし、今の彼にはその資格もないのだ。
彼は拒否されたと思っただろうか。
彼を傷つけてしまった。玲爽は顔を両手で覆った。




